OL小説:「A.O.L.」その23

 相談を受けた日からこの数日間、傍目には元気すぎるくらいに元気に振舞う氷那を見かけるたび、実花は気になって仕方がなかった。週が空けて早速、氷那は企画課の上司に今以上の仕事を受け持ちたいと積極的に働きかけ、毎晩かなり遅くまで残って仕事をしていた。
 プライベートな事情から見れば皮肉なことだが、先だってのイベントが成功に終わったことで社の内外での氷那の評価は一段と高まり、実際は空元気を原動力にした前向きな姿勢であったにもかかわらず、他の一般の仕事仲間たちには氷那の忙しさを求める態度はむしろ喜ばしいことのようにとられてしまっていた。
 その日、これから客先に出向くことになっているから、と経理課に清算に立ち寄った氷那をほとんど無理やり捕まえて実花が問い詰めてみたところ、氷那は「家に一人でいると、どうも余計なことを考えすぎちゃうんで」とほんのちょっと疲れも見え隠れする笑顔で応えた。
 今日の予定を聞いてみると、客先回りが終わったら今日はそのまま直接家に帰ることになっているという話だったので、実花は思い切って氷那を食事に誘ってみた。どうせ自分も今の時期は残業をしなければならないのだし、頃合をはかって連絡をするよ、と提案すると、案外あっさりと氷那は「いいですね」と承知した。
 夜になって、仕事が終わった氷那が実花に電話を入れてみたところ「あぁ。それね!」と不自然げな声を上げたあと、何の脈絡もなくある一軒の居酒屋を名指してそこにしよう、と言い出された。しかもその店内のレイアウトと、座るべき席の位置まで事細かに指示してくるものだから、何かおかしいと思った氷那がいぶかしんで尋ねると、実花は「スペシャルシートとして予約が入っているから」と、どこまで冗談かよくわからないような言い方をしてきた。
 氷那はそこに用意されているだろう「何事か」をそれ以上尋ねることなく、言われた通りにそこに出向いてみることに決めた。気を紛らわすきっかけになりそうなものであるなら、悪戯に乗ってみるのも悪くないと考えたからだった。
 ところが、実際に店に足を運んだ氷那がそこに見かけたのは、冗談にしては到底笑えそうもない人の背中だった。それとわかった瞬間立ち止まり、まだ自分に気付いていないらしいその人周囲も窺ってみたが、他に誰かいそうな気配はない。やけにそわそわとしているらしい様子からして、その人も誰かにここに呼び出され、何かわからないものを待っているふうに見えた。
 黙ってそのまま帰るということももちろんできた。気晴らしという目的を持って来た自分には、決してそれは果たせないだろうな、と考えた。少し迷い、一旦は踵を入り口側へと返しかけたが、数歩と行かないうちに氷那は立ち止まり勢いも良く思い切ってその用意された隣の席に向かっていった。
 呼ばれた名前に振り向いた比呂子と目が合った瞬間、氷那は胸が締め付けられるように熱くなったのを感じた。

          *

 込み合った店内のカウンター座席に肩を並べて、比呂子はいつもの人懐こい笑顔をして先に話し掛けてきた。
「緊張しちゃうね。こういう立場で会うことになるなんて、思ってなかったから」
 平然とした口調で言ったことだが、いきなり過激な一言でもあった。氷那のことを見下して言った、という感じは全くなかったのだが、要するにその意味するところというのは、(女同士の場合の呼び方は知らないが)ある種下品な言い方さえできるつながりを持ってしまった自分達、という自虐的な意味であった。確かに、ずっと以前に開発室でサンプルを受け取ったときには、まさか次に二人きりで話をする機会がこんな状況になるとは、全く考えもしていなかった。
 目の前にある料理は既にすっかり冷め切っていて、それでなくても調子が良いとは言いがたい氷那の胃の腑には、じっと見ているだけでも軽い痛みすら覚えさせてくる。
 普通の会話が全く続かない状況の中、氷那はグラスの中の氷をカラカラと弄びながら目を合わせずに言い出した。
「真夕とは、うまくいっていますか?」
 最初、それを聞いた比呂子は一度はあいまいに言葉を濁すような返事をしたが、すぐに思い直したように「いってるよ」と言い直した。自分から言い出したこととはいえ、それを聞かされると氷那の胸にはやはり強くこたえた。
 比呂子はその動揺を見て見ぬフリをするように言葉を続ける。
「私から言うのも図々しいことかもしれないけど。真夕はね、氷那さんのことすごく心配してたよ」
 それから、じっと氷那の横顔を見据えるようにして、ちらりと氷那が自分に視線を変えてくるまで待ってから言った。
「ねぇ。氷那さんは真夕のこと、今は嫌いなの?」
 テーブルの上で、氷那は自分の拳を強く握り締めた。カッと顔の熱が上がったのを感じていた。
「そんなことは、ありません」
「だったら真夕のこと、避けないでいてもらえない? はっきり口に出してはこないんだけど、その分本人は自分の中だけで強く思いつめてるみたいで。…ねぇ、言ってる意味、わかるよね?」
 真夕というキャラクターからして、自分がそんなふうに無視をし続ければ、きっと気に病むに違いないとは、氷那には十分わかっていた。そしてわかっていたからこそ、わざと相手に対してそうしていたのは、他でもない自分自身の卑小な満足感のためだ。
 やんわりとした口調ながら図星を指してきた比呂子に、氷那はふてくされたような態度で「そうは言っても、簡単なことじゃないですよ」と言った。「どうせ比呂子さんにはわかりませんよ」とも。
「大体、こんなふうになったんだったら、落ち込む真夕をどうにかして元気付けてあげるのは比呂子さんの役目でしょう? なんで私がそれに協力しなきゃいけないんですか?」
 氷那の半分切れかけた返事に、比呂子は「まあまあ」となだめるように笑顔を作った。
「そんな難しいこと言わないでよ。真夕にとってはね、氷那さんの存在は他の誰かで埋められるような小さなものじゃないんだから」
「何ですか、それ。おだててるつもりですか?」
 更に氷那はむっとした様子も隠さず比呂子に噛み付いていった。次第に冷静さを失いつつある氷那とは反対に、相変わらず飄々とした笑顔のままの比呂子の態度は、その意図するところとは逆効果に、氷那のくすぶっていた気持ちに火をつけたような格好となった。
「誰のせいでこうなったと思うんですか? まるで私が好き好んで真夕と気まずくなってるみたいな言い方をしないでください。言っておきますけど、私は真夕とこうなることを、少しだって望んだことはないんです。どうしてそのまま私達をいい関係でいさせてくれなかったんですか?」
 精一杯抑えた、そしてその分重々しく怒りのこもった声色で、氷那は比呂子を半睨みしながら言った。
 比呂子がそれにどう答えようもなく沈黙を守っていると、氷那はまだ何か言いたいことがありそうだった口元を思い直して閉じ、大きなため息をついて首を横に振った。
「嫌なやつでどうもすみません。だけども、私はどうしてもまだ納得がいかないんです。これまで真夕とはほとんどケンカらしいケンカもしないでずっと仲良くやってきていたし、真夕だって私のことをいくらかは好きだって思っていてくれていたはずなんです。それなのに、どうしてそれをそのままそっとしてくれなかったのかって。私、比呂子さんに何か悪いことでもしたんですか?」
「ううん。してない。氷那さんは、何にも悪くない」
「だったらどうしてですか? ちゃんとわかるように説明してください」
 居酒屋店内の喧騒の隅で、かなり長い時間比呂子は黙りこくっていた。そしてどれくらいしてからか、ぽつりと「ごめんね」と呟いた。
「謝って済むってことじゃないってわかってるし、許してくれなんて言えない。でもね、さっきも言ったとおり、真夕にとって氷那さんは他の誰かで替わりがきくような人じゃないよ。だから、私のことはともかく、せめて真夕にはあまりつらいことしないでいてもらえないかな。私のため、とかそういうんじゃなくて」
 どこかで聞いた台詞だな、と思った。記憶をさかのぼってすぐ、ああそういえば、と氷那は思う。
 ほんの少し前に、自分も同じようなことを真夕に言っていた。自分じゃ埋めてあげられない比呂子という人の存在について、それはそれでいいから、と許したのは他でもない自分だった。
「比呂子さんは、私の存在が邪魔だったりしませんか?」
「『邪魔』? どうしてそうなるの?」
「私は真夕と付き合ってて、思ったことがありましたよ。比呂子さんが、誰か他の人と付き合ってしまえばいいのに。いっそ、目の前からいなくなってくれればいいのに、って」
 それを聞いて比呂子が悲しそうな顔をしたのに、氷那はとても驚いた。「すみませんでした」と謝って小さく、「こんなふうに二人で話したりなんて、したくありませんでした」と囁くほどの声で言った。
 だけども比呂子にはきちんとその声は届いていたようで、「私もそう思う」と同じように小声で呟いたのが氷那には聞こえた。
 氷那は頬杖をつくと、どこを見るともなく話を始める。
「私が、真夕と最初に出かけた夜。真夕は比呂子さんに会いたがってたんです。比呂子さんからのメールを見て、『一緒にいたいんだけど、それを言い出せない』ってふうだったところに、私はすごく興味を持ったんです。そんなふうに思うって、どんな関係なんだろう。どんな人たちなんだろう、って」
 そう言うと、氷那はちらりと比呂子の顔を見た。比呂子は周囲の騒がしさに消されないように、と少し体を傾けて、氷那の言葉を聞こうとしてくれているようだった。
「で、真夕と仲良くなって。そうしているうちに話づてに比呂子さんて人のことも少しずつわかるようにもなってきて。…直接話をすることはほとんどありませんでしたけど、一方的には、思ってました。どんな人なんだろうな、って」
 比呂子が意外な氷那の言葉にきょとんと小首をかしげたのが見えて、氷那はようやく笑顔が漏れた。やっぱり不思議な人だな、というのが正直な感想だった。
「今考えてみれば。私は、最初から好きだったんだと思います。真夕のことはもちろんだけど、比呂子さんのことも。ほとんど同じくらいに」
 比呂子は前かがみになっていた体を起こすと、氷那の弱弱しい肩口に触れた。氷那がそれに頼るように体を傾けると、頬が指の甲のあたりに触れた。
「私は、比呂子さんのことが『好き』だったんです」
 比呂子は、まだ完全に治りきっていない左手の手首が軽くうずくように痛むのを感じた。いつまでも残るような痛みには、なってほしくないと思った。
「私は、氷那さんのことが今好きだよ」
 ありがとうございます、と言った氷那に腕を伸ばして抱きしめるようにすると、微かに氷那が泣いたらしい感触が胸元に伝わった。
 すぐに体を話した氷那は、比呂子に「今泣いたことは絶対に真夕には言わないでくださいね」と微笑みながら目元を拭って言った。



----------終わり