OL小説:「A.O.L.」その22

 帰るね、と部屋を出る直前に振り向いたときに氷那が見せた、今にも泣き出しそうな笑顔が、真夕にはずっと胸にひっかかったままでいた。
 結局すれ違う機会にすら恵まれないまま月曜日が過ぎ、既に火曜日の昼休みも終わりに近づいてきた時間である。割と粘り強く待ってはみたのだが、今日もどうやら氷那はここで食事はとらないつもりなのか、食券が売り切れを出す頃になっても姿を見せる気配もなかった。
 かといってわざわざ企画課にまで出向いて何がどうなっているのか尋ねるというのも、自分がしたことを考えればそう気軽にできることではない。
 真夕がほとんど内容が頭に入ってこない雑誌を前に大きなため息をついたところで、背後から肩を叩かれた。振り向くと、食事が終わってからいつもの休憩エリアに行ったはずの比呂子だった。
 わざわざ戻って来てくれたの? と真夕が体を少しずらして席を詰めるようにすると、いつもと-----以前とも-----変わらない微笑みをして比呂子は真横の席に腰掛ける。周囲にぽつぽつと残る人をざっと見回して「いないみたいだね」と肩をすくめた。
 真夕が食事のあと一人で席に残っていたのにはきちんと理由があって、一つはもし氷那が実際そこに現れたとき、比呂子とさも親しげにしているように見せているようで気が引けていた、ということで、もう一つは-----むしろこちらの方が真夕としては大きな要素ではあったが-----あまり氷那のことを気にしすぎているところを比呂子に見せたくなかった、からだった。
 そのへんの気持ちは比呂子の方でも汲んでくれたのだろう、月曜日の食事後に真夕からそうしたいと提案されても何も意見を挟むことなく、それじゃまたあとで、と大人しく姿を消した、のだった。
 すぐ隣にこうして座ってくれている、というだけでも本当はとても嬉しい。だけどもそれを態度や言葉に出そうとするたび、やっぱり一瞬周囲を窺うようにしてしまう。真夕は会話の途中で出てきた比呂子の小さな冗談に対して、手の甲を軽く叩く仕草をしかけて直前で手を止めた。
 そういう諺もあった気がするが、両方に気を遣おうとするあまり、結果的に両方を余計に傷つけるような行動をとってしまっている。それが自分でもわかって、真夕は自己嫌悪に今日何度目かにもなる大きなため息をついた。
「気にしなくてもいいよ。でも、もうちょっと堂々としててもいいんじゃないかな」
 そう言うと、比呂子はテーブルの上にある真夕の手の上に自分の手のひらを重ねた。なんだかんだと言っても、その温かさに真夕はほっとしてはにかむような笑顔を返す。
「こういう時って、やっぱり待つしかないのかな。…そうだよね、悪いことをしたのは私の方だもんね」
 答えを求めるというよりも、独り言のように真夕がこぼす。比呂子は無言のまま、ただ真夕の手を握った力を少しだけ強くした。
 言い方次第ではもっと温和な形になれたかもしれない。やり方次第ではこんな急激に関係を変化させることもなかったかもしれない。
 だけども、真夕はどれだけ考えても、自分には正直な気持ちをそのまま相手にぶつけること意外にはできない、という結論にしか達しなかった。
 土曜日の夜、先の連絡で部屋に来てくれることになった氷那に、真夕はそれでも精一杯のタイミングを見計らって比呂子とのことを話した。もちろんだけれど、その全てを事細かに話したというわけではなかったが、ごく大雑把な説明だけでもその後ろにある流れを氷那は鋭く悟ったようだった。
 日曜日の朝になるまで、真夕はそこで氷那を帰してしまったこと、追いかけずにいたことは本当に正しかっただろうか、とほとんど眠ることもないままずっと考えつづけていた。
 いっそのこと、大泣きでもされていくつか暴力でも加えられていたなら、ここまで自分に対して罪悪感を重く感じることもなかったのかもしれないが、当たり前のように氷那はそんなことはしなかった。
「ねえ、比呂子さん。すごく優しくされることって、すごく残酷なことにもなるんだね」
 一般論のような物言いでぼかした言い方をした真夕に、比呂子は「そうかもね」と子供を相手にするような笑顔を見せる。
「でも、それはそうされる人が『優しく』なきゃ意味ないことなんだろうけどね」
 あまりにもさらりと言うものだから、まるでさっきまで言っていた冗談の延長のようにすら思えるくらいだった。だから二人はそこで少しだけ笑った。
「別に、いいよ。私は。真夕がそうしたいなら」
「え、な、何?」
「連絡。したいんじゃない」
 比呂子はテーブルに出しっぱなしになっていた真夕の携帯電話をちらりと見る。いつ鳴り出してもいいように、と思って出していたものなだけに、真夕はそれを聞いてつい顔が赤くなってしまった。
 電話を引き寄せて握り締めまではしたが、真夕はそれを開こうともせずに首を横に振った。
「ううん。やっぱり、連絡っていっても何をどう話していいかわからないし」
「そっか」
 そこで、午後からの就業の時間を告げるベルが鳴った。食堂の出掛けにもう一度そこにいる人たちを確認し、それから二人は開発室に続くエレベーターの前へと向かった。

          *

 比呂子から切り出した言葉を、香澄は意外に冷静に受け止めた。話が終わったところで「そうですか」とだけ短く言って、自分から詳しく質問をしてくるようなことは一切しなかった。
 待ち合わせた賑やかな居酒屋で、アルコールを口にする前に比呂子が済ませた話だった。
 とりあえず、でまず軽く一杯目を飲んでから、ようやく香澄は感想らしきものを口にする。
「正直なところですけどね。やっぱりね、なんですよね。どうせ早かれ遅かれそうなることはわかってたっていうか。しつこく誘っておいてなんだ! とか思います?」
 比呂子は首を横に振った。香澄はそんな比呂子の態度に苦笑気味の顔を向けると、何かに気付いた様子で自分のカバンに手を伸ばした。中から取り出した電話が、流行のポップソングを鳴らしながら点滅している。いいですか? と承諾を取る香澄に頷くと、すぐに通話を始めた。
「どうもすみませんでした。…はい、それはもう手配済みです。……そうです、はい。はい」
 騒がしい周囲にあっても、漏れ聞こえてくる特徴のある声色と受け答えの内容で、相手が実花であるらしいことはすぐにわかった。仕事の話がざっと済んだのか、香澄はちらりと比呂子の顔を見ると、いきなり電話の相手に向かって「もしよかったら、これから出てきませんか?」なんてことを言い出した。
「何? え? 比呂子と一緒? 二人なの?」
 まだ会社に残っているのか、不機嫌そうな実花の声のする携帯を、香澄は比呂子に渡した。比呂子はその相変わらずのふてぶてしそうな様子にむしろ安堵感を覚えたようで、それを受け取るとわざとらしいくらに明るく「お仕事ご苦労様」と話し掛ける。
「もう残業は終わったんでしょ? 今からでも出てきなよ。ほら、前に一緒に来た店だし、そんなに遠くないからさ」
「何言ってるの? 私だってこれから予定の一つや二つねぇ…」
 掛け合いのような短い通話のあと、結局予定のないことがばれた実花がこれからこちらに向かうということで話がまとまった。比呂子が携帯を返すと、香澄はさてと、と息をつくと目の前の自分のグラスを大きくあおった。
「じゃ、そういうことで。お願いしますね」
「うん? 何、どういうこと?」
「この先の相手は、実花さんにバトンタッチってことです」
 よく状況がつかめないでいる比呂子が呆然としている間にも、さっさと香澄は自分の荷物をまとめると、財布から一枚抜いてテーブルの上に置いた。
「ちょっと。なんで急に? せっかく来たんだし、一緒に飲んで行こうよ」
「そうしたいのはやまやまなんですけど、時間がもったいありませんから」
 香澄はそう言うと悪戯っぽい顔をして笑う。「だって、ここに何時間いたって、私の恋人になってくれる人は現れませんからね」と、うそぶく。
「実花さんには、適当に言っておいてください。急な用事ができたとかなんとか。そのくらいはしてくれますよね?」
「うん。それじゃ…気をつけて」
 最後の比呂子の一言に、やれやれ、といったふうな顔を向けると、香澄は早々にその場を去っていってしまった。一人残された比呂子は時計を見て、実花がおそらくここに着くだろう時間を逆算してみる。それでも数十分の余裕はありそうだったので、一旦会計を済ませて別の店に行こうかとも思ったが、香澄のかすかな仕返し、という意味で考えれば黙ってここで待ってみるのも、それはそれでいいような気がしてきた。
 周囲の喧騒の中、ただじっと連れが来てくれるのを一人で待っていた比呂子だったが、その到着は予想していたよりもだいぶ早かった。
「比呂子…さん?」
「うん?」
 思いも寄らない声に比呂子が眠くなりつつもあった顔を上げると、カウンターの背後には見慣れた顔が自分を見下ろしていた。
「どうしてこんなところにいるんですか? 実花さんは?」
「実花? なんでって、それはこっちが…」
 口を開きかけて、比呂子は自分が策略にはまったらしいことに気が付いた。きょとんとしている目の前の相手も同様だろう。
 粋な計らいのつもりかもしれないけれども、しかしとんでもなく面倒な優しさを見せてくれたもんだ、と比呂子は思う。
「座る? 店員さんを呼ぼっか」
 戸惑ったように棒立ちのままの相手に、比呂子は笑顔で席をあけた。素早く通りかかった店員に、適当な飲み物を注文する。
「考えてみれば、二人でゆっくり話をする機会って、今までなかったよね」
「そうですね」
「私ね、本当はずっと前から誘ってみようかなって思ってたんだよ」
 比呂子がそう言って微笑むと、相手もつられて口元をほころばせた。いかにも直帰で来たらしい大きな荷物が、狭い肩幅にはやや痛々しい印象にすら映る。
 氷那はそれでもしばらく立ったまま、どうしようかと迷っていたふうだったが、やがて運ばれてきたアルコールが比呂子の隣に置かれるのを見ると、覚悟を決めたように肩から下げていた荷物をその場に下ろした。