OL小説:「A.O.L.」その21

 陽もすっかり高くなった朝とも呼べない時刻、真夕は一人駅から自分の部屋に向かう道を歩いていた。時折軽いステップを踏むように足元を弾ませたり、ふと頭に浮かんだ古い歌を口ずさんだりしてしまう。もうちょっと深刻な態度をとるべきなのに、と思ってはいるものの、昨夜のことがじわじわと思い出されてくるたび、湧き上がるかのような胸の奥の温かさに、体が勝手に動き出す。
 今朝、目を覚ましてからしばらくは、そんな必要なんてどこにもないのにとても気恥ずかしくて、比呂子の顔がまともに見れなかった。その自分のよそよそしさを、もしかして悪い方向に誤解されはしないだろうか、とも心配したが、比呂子は何もかも承知しているかのようで、特段に問いただすようなこともしなければからかいもしてこなかった。
 眠っている間(だけではないだろうが)に解けてしまった、という左手の包帯を頼まれて巻き直しながら、真夕はようやく少しずつ現実感を取り戻していった。
「昼前には、帰るね」
「うん」
 言い出す前から予想できていたとおり、比呂子は真夕を引き止めも促しもしなかった。真夕にはそんな態度こそがいかにも比呂子さんらしいな、と思えた。
「何か。もし、あるようだったらすぐに連絡するね」
「わかった。じゃあちゃんと携帯の電源入れておかなきゃ」
 以前からうっかり切れっぱなしになっていることがよくあり、それは真夕にも何度も咎められていた。そうだよ比呂子さん気をつけてよね、と真夕がつっこむと、それがその日の最初の冗談のような言葉にもなって、比呂子が先ににっこりと微笑むと、真夕もそこでやっと笑顔を作ることができた。
 やや遠慮がちに笑いあってから、比呂子は少しため息をついた。
「でも、なんか怖いなー。そういうの」
「怖い? 電話を待ってるのが? どうして?」
「だって就職の試験とか思い出すじゃない。『今回は残念ながら…』とか言われたらどうしようとか、そういう気持ち」
「そんなこと!」
 ないよ、とすぐにも言うつもりだったが、ちらりと視線を合わせてきた比呂子に続きを遮られた形になった。実際、今でこそ確かに自分の気持ちは疑うべくもないものの、これからいくらか時間が置かれて状況に変化が起きたときにまで、全くそれを同じ形で持続させ続けることができるかというと、そこまでは”絶対”と言い切る自信はない。
 もちろん口約束で適当な安心を相手に与えることもそれはそれで一つの方法ではあるけれど、ことに比呂子という人にはそんな場しのぎは不要-----どころかむしろ迷惑-----なことであろうことは、昨日以前の付き合いの中だけでも真夕は十分承知していた。
「あのさ、比呂子さん。私、昨日から何度も言ってるけど」
「うん」
「比呂子さんのことが好きだっていう気持ちは、本当だよ。本当に、絶対に」
 昨日までのものとは違う、新しくおろしたばかりの包帯を真夕は比呂子の手首に頑丈に巻きつけた。最後にはしっかりと、解けないようにと結び目を強く締める。「固めすぎて痛い?」と真夕の問いかけに、比呂子は「今はこのくらいが丁度いい」と応えた。
 お昼前ごろに見送られて比呂子の部屋を出てからすぐ、真夕はそれまでわざと無視してきた自分の携帯電話を取り出した。
 緊張のため一つ深呼吸をしてから、思い切って開いてみたのだが、意外なことにそこに届いていた氷那からの着信はほんの1件だけだった。
「こんな遅くにゴメン。起きてからでいいから連絡ちょうだい」
 受信時刻は真夜中近く。その頃は確か、と真夕が思い返すと、自分が比呂子からお風呂を借りていたころの時間だったはず、と気付く。着信の音は消してあったし、手持ちのカバンの専用ポケットに閉じ込めてもあったはずだから、比呂子が気づいたということはないだろうが、もし自分が先にこれを読んでいたりしたら、どうなっていただろうか、とはやっぱり考えてしまう。
 迷ったが真夕はとりあえず今すぐに返信はせずに一旦自分の部屋に戻って、少し休んで気持ちを落ち着けてから次の行動は考えることにした。
 自分の性格上、それがしなければならない会話なら、どういうふうに何をどこまで説明をするべきか、先にきちんと準備をしておきたかった。

          *

 前の日のアルコールが抜けきれない、気だるい日曜日の朝。実花はしつこく鳴り続ける自分の携帯電話に強引に起こされた。舌打ちをしながらほとんど何も考えず、表示されていた相手の名前もろくに確認しないで不機嫌な第一声を返す。
 だけども、そんな不遜な態度は相手の声を聞いた瞬間に180度転換をすることとなった。
「実花さん? すみません。まだ寝てました、よね?」
「あ、うん。そうだけど。何?」
「いえ。そんな大した用事ってほどのものじゃないんですけど」
 受話器の向こうの声は、かつてから世話をしてきた妹のような存在である、氷那のものだった。声音自体はそれほどいつもと調子が違うというわけでもなく、どこがおかしいとすぐに気付けるものではないのだが、二言三言の挨拶言葉を交わしているうちに、実花は妙な違和感を感じ始めた。
 やっぱり迷惑そうなんでまた後日に、と電話を切ろうとしてきた相手を、実花は「待ちなさいよ」と語気を強くして引きとめる。
「もうどうせ起きちゃったんだしさ。これから二度寝したら夕方までダラダラしちゃいそうだよ。だから、迷惑とか余計な遠慮はしなくてもいい。それで?」
「はぁ・・・」
「だから、どうして私に電話をよこしたの?」
 最初はやや言い渋っていた氷那だったが、実花の逆にキレられそうな態度に押されたのか、それじゃお願いしたいんですけど、とようやく本題を切り出してきた。
 約一時間後、二人は待ち合わせ場所であるレストランに向かい合って座っていた。
 朝食を抜いていた実花が旺盛な食欲で注文の品を片付けていく目の前で、氷那はというとほとんど自分の皿の上のものには手もつけず、どこか上の空のような様子で手元のカップを弄んでばかりいる。
 実花はそのいつまで待っても片付け終わりそうもない氷那の皿と本人の顔とを順に見て、それまでしていた世間話を切り上げた。
「何か相談があったんじゃないの? 私に」
「相談、て言いますか。相談がなくなったって言いますか」
 もごもご、と似つかわしくなく言葉をしぼませて、氷那は小さなため息を漏らした。実花はしばらくじっと、相手が次に言い出してくるまでを辛抱強く待った。
「あの。実花さんんて、比呂子さんとは入社以来の付き合いなんですよね」
「比呂子? ああ、うん。ほとんど腐れ縁て感じも最近はしてるんだけど」
 でもどうしていきなり比呂子? と尋ねかけたが、それをするよりも氷那が次の質問を実花に出す方が早かった。
「ずっと親友でいるって、どんな感じですか? だから、一般論とかじゃなくて。比呂子さんて人は、やっぱり他の人とは何か違う感じって、今までしてきました?」
 意図がよくわからず、実花は怪訝そうな顔をして「何?」と氷那に聞き返した。氷那はわかりにく質問をしてしまったことを軽く謝罪をして、再び口を開き直す。
「比呂子さんのこと、実は私、あまりよくわからないんです。これまでは、ちょっと遠くから見て、ああ、すごい人なんだな、とか、そんな程度には思ってはいましたけど。でも、本当はどんな感じの人なのかな、とは結構前から興味とかあって。深く付き合ったことのある-----実花さんは、どう思います? 比呂子さんのこと。友達として」
 やっぱり質問自体の意図はわからないままだったが、とりあえず質問したいらしいことはわかった。実花は「そうだなぁ」と少し考えをまとめて、思ったとおりのことをそのまま言うことにする。
「悪い人ではないよ。決してね。そりゃ多少ひねくれてたり、次の行動が読めない変なところがあったりはするけど、話してて嫌な気分になったってことは一度もなかったもの。突飛な行動も、最初はびっくりしたりもしたけど段々慣れてきて『ああ、あれが彼女なりの美学なんだな』ってわかるようになったら、それはそれっておもしろく思えるようになったし。適度に距離感を持って接する分には、楽しい友達だと思うよ」
 ただ、と実花が言いかけの言葉を切ったところで、氷那がやや身を乗り出すようにしたのがわかった。実花は、もしかして、と微かに思いつつも話を続ける。
「勝手な想像だけどね。『恋人』として付き合う人にとっては、それなりに苦労がある人かもしれないな、とは思ったことはあるよ。多分振り回されちゃうんだろうな、って気がするからさ」
「そう…ですよね。やっぱり」
 実花はここまでの会話で、おそらく氷那は佐倉香澄のことについて遠回しに聞きたいのだろうと推理した。香澄が積極的になることで揺れている比呂子の立場が、近いうちにも固まってもらいたいと思うがゆえに、状況判断として自分の意見を聞きたがっているんだろうと、そう思っていた。
 だから、そこから先に氷那とすることになった会話については、本当に実花としても全く心構えのできていないものだった。
「きっと、苦労しますよね。比呂子さんと付き合うって」
「まあ。その人次第だろうけどね。一言に『恋人』だとか『付き合う』だとか言っても、そこに安心感だけを求める人もいれば、反対に刺激がないと物足りないと思える人だっているんだろうし。私が、って言われればちょっとは遠慮させてもらうけど、もし好きって思えたんならいいんじゃないの。そんなちょっとした気苦労も」
「気苦労、か…。どうなんだろ。大丈夫なのかな」
 そこまで言って黙り込んでしまった氷那に、実花はつい名前を呼びかけた。
 氷那はそこでほんの微かに笑顔を作って、それから頬杖をつくと隣の窓越しに見える空に遠い目を向けた。
「やっとわかった、って言ってたんです」
「うん?」
「何をどんなふうに理屈をつけられても、『好き』って気持ちはどうしても曲げられなかった、って」
 夏の終わりの翳りある午後の陽射しは-----こんなときに不謹慎ではあったけれども、実花の目には-----その時の氷那の表情にはとてもよく似合って映った。
「きちんと付き合うことにしたんだそうです。比呂子さんと」
「そうなんだ…って、え?」
「真夕が。自分ではっきりそう私に言ったんです」
 呆然とその言葉を受け止めてからしばらくして、実花は我に返って氷那のテーブルの上の手に触れた。氷那はそれがわかって少しだけ笑って、「すみません」と何に対してかよくわからない謝罪の言葉を口にした。