OL小説:「A.O.L.」その20

 氷那が中心となって企画したキャンペーンイベントは、幸いなことにトラブルらしいトラブルもなく、まさに成功裏に終わったと言ってもよかった。
 その打ち上げとして開かれた飲み会では概ねかけられるのは褒め言葉の方で、それ自体は嬉しいものの逆にそのせいでなかなか席を立つことを許してもらえなかった。
 今朝のうちにも遅くなることは真夕にも連絡してあったが、せっかくの休み前の週末に会えずにいるのは、いくら仕事とはいえやっぱり物足りない。氷那はやっとのことで言い訳を作って一時座を離れると、こっそりと店の隅でメールのチェックをしてみた。
 いくつか他の仕事の件についてや、別の友達からは何通か入ってはいたものの、肝心の真夕からの連絡はない。氷那は少々がっくりとした気分になりつつ、そのことについて何か言ってやらなければ、と思って作成の画面を開こうとした。
「あ! こんなところにいた、いた! 主役が抜けてちゃダメでしょ。ほらほら」
 しかしそこでいかにも酔っ払ったらしい同じ課の同僚に見つかってしまい、氷那は強引にもといたテーブルへと引き戻されてしまう。
 こぼれる寸前まで注がれたアルコールのグラスを受け取りながら、氷那はちらりと時計を見上げた。もう30分もすればこの店での制限時間は切れる。
 だけどもやや離れたテーブルからはまだ上機嫌な大声も上がっているような状態で、場のテンション的にも二次会が開かれるだろうことはまず確実なことだった。

           *

 すっかり身支度を整え終えてから、真夕は比呂子の真正面に正座をすると、きちんと背筋を伸ばした状態で対峙をした。
 対照的に比呂子はやや足を崩したふうにして、どう表情を作るべきなのかわからないように落ち着かなく自分の部屋のあちこちを見回したりしている。
「あのさ、真夕。話はちゃんと聞くからさ、そんなきっちり改まらないでよ。なんだか緊張しちゃうから」
 意図的ににこやかに提案をする比呂子だったが、真夕は姿勢を崩そうともせず軽く首を横に振った。
「私はね、今までずっと考えてきたことを、きちんとした言葉にしたいの。比呂子さんはどんなふうにしててもいいから、私がこれから言うことを最後まで聞いて」
 不承不承、ともとれそうなふうに困った顔を少しだけして、比呂子は「わかった」と自分の崩していた足を畳み直した。
 真夕は深呼吸を一つしてから、さらに神妙な面持ちを深めてゆっくり口を開く。
「色々と私なりに考えてみた結果なんだけど。私、やっぱり比呂子さんのことが『好き』なんだと思う」
「うん。ありがとう。でも…」
「お願いだから、最後まで言わせて」
 言葉を割り込ませようとした比呂子に対して、真夕は強めの口調でそれを制止した。真夕の態度からその決意が固いものだということをさとり、比呂子は諦めたように素直に引き下がる。
「氷那のこともね、わかってるよ。私は今彼女と付き合っているんだし、氷那のことも私はきちんと『好き』って思ってる。私だって彼女のことをわざわざ傷つけるようなことはしたくないし、彼女に嫌われるかもしれないと思うと、すごくつらい」
 比呂子は約束どおり言葉を差し挟むことはしなかったが、静かにそれには頷いた。少し長めの間を置いて、真夕は話を続ける。
「だけども、その『好き』と比呂子さんに感じてる『好き』は、私にとっては全く別のものなの。そういう言い方は卑怯だとか、詭弁で誤魔化してるだけだとか、そういうふうにも何度も自分自身で考えてみたりもしたよ。それでも、だからと言ってじゃあそのどっちかが『嘘』なのかっていうと、それも違うと思う。どっちがどのくらい、とかどういうときにはどっちが、とかそういうことだってない。氷那のことを『好き』って思い込もうとしすぎて、比呂子さんを『好き』じゃないんだって思い込むのは、それはそれで私にとっては『嘘』になるんじゃないかって。……しばらく、比呂子さんと会えない日を続けてみて、それで今日そんな事故があったって聞いて。それでそう思ったんだ」
 真夕は何度か声を詰まらせたり、表現に迷ったりしながらも、そこまでの長い言葉を言い切った。言い終わって、また少しおいて最後に「私は、比呂子さんが好き」ともう一度言い直す。
 静かな部屋の中では、遅すぎると思えるくらいにゆっくりと時間が過ぎる。真夕にとって自分の言葉が終わってから次に比呂子が何かを言ってくるまでは、もどかしいくらいに長くて長い間に思えた。
「真夕。一つ質問をしてもいい?」
「うん。どうぞ」
 真夕が顔を上げて比呂子の顔を見ると、普段からとてもらしくないと思えるほど、とても真剣な表情をしていた。
「私を好きで、それで。真夕はどうしたいって思うの?」
「どう、って。あ…」
 比呂子はそれだけで艶かしく感じられるような手つきをして、自由の利く腕の甲で真夕の片頬に触れた。頬から顎近くまでを撫で下ろされるふうにされると、つい反射的に体を逃がすような仕草をしてしまう。
「深海さんとも寝て、それで私とも寝る? それも両方を『好き』だから真夕的にはOK?」
 やっぱり普段とは全く様子の違う挑発するような物言いに、乗せられかけた真夕はかっと視線を鋭くした。だけどもそんな真夕の凄みにも比呂子は涼しい顔をして、さらに悪戯の度を上げていくふうに指先を真夕の顔から首筋へと移していく。
「私にも責任の一端はある、って言いたいよね。私もそう思う。あの時、変な理屈なんてつけないで素直に真夕と付き合ってしまってさえいれば、きっとこんなふうにはならなかったはずだもんね」
「そうだよ。どうしてあの時、あんなこと言ったの?」
 なんでだろうね、と話題を止めると、比呂子は真夕の頬をなぞり続けていた指を止めた。急に力を強く、顎をつかんで自分の方へと持ち上げる。
「後悔してるよ。今になってみればね、すごく」
 指先は乱暴だったが、触れた唇は優しかった。様子を探ろうとするかのように、軽く触れては少し離れて、真夕が体をどのくらいでどう離しにくるかを確かめながら短いキスを繰り返す。
 真夕は緩い指先の力で支えるだけの、どうぞ逃げてくださいと言わんばかりの比呂子の仕草に、反抗心を煽られる気持ちにもなって自分からは逃げも、求めもしなかった。
 硬直したようになった真夕への最後のキスをして、比呂子はほんの少し体をずらして真夕の肩口に頭を乗せる。
 そこでの言葉が届くほんの一瞬の直前に、耳元そばでかけられた吐息に真夕はぞく、と背中が痺れるような感触を味わった。
「本当は、もっとずっと前からこうしたいって思ってた。本当に、ずっと、ずっと前から」
 タガの外れる瞬間、というのは意外に前兆のないものなんだな、と真夕は不思議と冷静にそんなことも考えた。そう囁かれた途端、真夕はほとんど頭で考えることなく自分の腕を比呂子の背中へと回した。
「ずっと、って。いつくらいから?」
「わかんないけど。でも、きっと真夕に最初に会って話をした時から少しずつ、だと思う」
 ぎゅ、と真夕は比呂子の背に回した腕の力を強めた。比呂子が右手だけでなく痛むはずの左手も持ち上げて首筋を掻き抱いてくる。思えば、それまで過ごしてきた時間の中でも、比呂子が自分の感情を強く示してくるようなことはほとんど全くと言っていいほどなかった。
 それが今自分の腕の中にある、という特別な感じは、真夕には得難い小さな快感だった。
「キスしていい? 比呂子さん」
「うん。しといて」
 苦しいくらいの抱擁が解けて、真夕は飛びつくほど激しい勢いで比呂子の唇に触れた。比呂子が途中で呼吸を入れようとする間も惜しく思えるほど、夢中で何度も何度も長いキスをする。
 自然な流れのように、比呂子が背後にしていたベッドにあお向けに倒れ込むと、真夕も自分からそこに乗り上げる。上下でお互いの顔を少し見詰め合っていると、どちらからともなく笑いがこみ上げてきた。
「灯りは? つけてた方が趣味に合う?」
「それもいいとは思うけど、今は別にどっちでもいいかな」
 比呂子の軽い口調を受けて、真夕はそれまで二人の頭上にあった光を消した。暗がりになって肌に触れると、明るい時よりも少しだけ温かく感じるのが不思議だった。
 片手が自由にならないこともあるのか、終始比呂子の方が受身で、真夕にほとんどされるがままになっていた。真夕はというとそれまでの経験では全く逆の立場であることの方が多かった手前、どうしていいか多少迷ったりもしたが、それでも触れているという感じそのものが大切であるような気もして、ぎこちないながらも時間をかけて比呂子の柔らかい肌に指先を滑らせた。
 途中で短い言葉は何度も掛け合ったが、沈黙が長くなったときでも二人は示し合わせたように会話らしい会話はしないでいた。冗談や軽口が多めになっていたのは、おそらく現実的なことを少しでも何か言い出してしまうと、そこから壊れてしまうんじゃないかと思えるほどの雰囲気の脆さがお互いにわかっていたからだろうと、真夕は思う。
 もともとそうした小さなジョークや機転の利いた切り返しが比呂子ほど得意ではなかった真夕は、あまりにも何度も何度も「好き」という言葉を繰り返して言い過ぎて、決して嘘ではないにしろ自分でもそらぞらしいなと思ってしまったくらいだった。
 朝を待たずに、出張疲れもあったのだろう比呂子の方が先に眠気に負け始めた。わき腹をぴったりとくっつけたまま短くてたわいない話をしていると、徐々に比呂子の返事までの時間が遅くなってきて、ついには規則正しい寝息に変わっていた。
 真夕は確認のために名前を呼ぼうとしたのとやめ、つけていた体を少しだけ放して比呂子の横顔を見た。すっかり暗闇に慣れた目では、十分な朝日の届くまでもしっかりとその形を確かめることができる。
 話しているときには大抵の場合浮かんでいる笑顔が消えると、まるで違う人とも思えるくらいに雰囲気が違っていて、真夕はうつぶせに頬杖をつきながら飽きることもなくかなり長い時間をそうして比呂子の顔を観察して過ごした。
 窓の外の景色を見ないまま、あとどれくらいしたら朝が来るんだろうか、と真夕は考えた。再びシーツに体をもぐりこませて、比呂子の体温を感じるように体を寄せると、ようやくといったふうに瞼が重くなってきた。
 そういえば氷那は今頃どうしているだろう。昨日はちゃんと家に帰れたかな、とそんなことを思い出しかけると、軽くうなるような声を漏らして比呂子が僅かに姿勢を変えた。
 真夕はそれを追いかけるように背中に頬をつけ、とりあえず今は眠ってしまおう、と思った。それほど苦労をすることもなく深い眠りに落ちると、次に目がさめた時には随分と長い時間が経ってしまっていた。