OL小説:「A.O.L.」その19

 部屋に着くまでの間に、出張先での一部始終は聞かせてもらった。
 比呂子自身が笑いながら話すところによれば、自分の不注意でしてしまった実にくだらない怪我なのだという。
 連絡は遅くなっていたが、最初から今日でこちらでの仕事は切り上げてしまうことにしてあり、朝のうちに既に宿泊先のホテルの清算は済ませてあった。本社のある地域ではそんな気配は全くなかったのだけれども、悪いことにその日の出張先は朝から雷の断続的に光る不安定な天候で、おおむねの仕事を終え最後の調整として地下にある設備室に入ったときに起きたのがそのアクシデントだった。
「焦るよねぇ。その地下室っていうのが電気式のロックで扉が開け閉めされるようになっててさ。それが私が入ってすぐにいきなり停電だもん。地下だからもちろん光なんて入らなくって、もう指先も見えないくらいに真っ暗」
 実は落ち着いて数秒じっとしてさえいれば緊急用の電源装置が作動するようにはなっていたのだが、比呂子は突然のことについ慌ててしまい、急いで入り口に向かおうとしたのが痛い失敗になった。
 運悪く足元には大きめの箱が置かれており、あっと思う間もなくバランスを崩すと左手首から床に倒れこんでしまった、ということだ。
「あーこれで終わりだ、とか思って気が緩んでたんだろうね。災害時に一番危ないのは、慌てることで自分から起こしてしまう事故だって聞くけど、それを身をもって体験したって感じ? 安い授業料だったのかな」
「それで左手は? 骨折とか?」
 あっけらかんと話す比呂子を急かすように、真夕は包帯巻きの左手をとった。運良くただの捻挫、と比呂子は言ってカラカラと笑う。看護師さんてばちょっと大げさですよ~って言いたくなったけどね、とふざけたふうにも付け足した。
 そこまで話を聞くと、真夕ははぁ~、と力が抜けたようにタクシーの後部座席に並ぶ比呂子の肩に体をもたせかけた。鼻先が比呂子の肩口に触れると、真夕にはいかにも旅行帰りらしい外気の香りが感じられた。
「とりあえず無事で良かった。本当に良かった」
 相変わらず大げさなんだから、と比呂子は寄りかかった真夕の肩を抱くように腕を回した。
 その体勢のまま真夕がちらりと視線を上げると、比呂子の横顔とその先に街の電光看板が過ぎていく景色が見える。運転手さんの視線の手前もあるのだし、早く体を起こそうとは頭では思うのだけれども、車内の生暖かい空気のせいかそれともそれ以外の理由のせいか、何かすぐに体を放すことがとても惜しく感じてしまう。下手をしたらそのまま目を閉じてしまいそうでもあり、あまりの逆らい難さに真夕自身で戸惑ってしまうほどだった。
「あ、運転手さん。次の信号を左に曲がってもらえますか。そこから少し細かい路地に入ります」
 結局二人が体を放したのは、比呂子の家にかなり近くなってからだった。眠っているかのようだった体を唐突に前かがみにして、比呂子は前座席の運転手さんといつもの気さくな口調で話を始める。
 一瞬だけ取り残されたかのように思えた真夕だったが、ふと見た自分の座席のすぐ傍に比呂子の片手が置かれたままになっている不自然さに気が付いた。
 タクシーが最後のカーブを曲がったところで、真夕がそっとその手を自分から握ってみると、比呂子は全く抵抗なくそれを受け入れた。触れてすぐ、くるりと裏返して握り返した手の強さは、まるでそうしてくれるのを待っていたかのようにすら、真夕には思えた。

          *

 蒸れちゃったよ、と眉をしかめながら比呂子は水よけに左手にかぶせたビニール袋をはぎとった。真夕は風呂上りで濡れたままの比呂子の頭を大きなバスタオルで包むと、本人に替わってくしゃくしゃと拭きにかかる。随分と時間がかかりすぎだったので様子を覗こうかと真夕は何度も迷ったのだが、なんとか比呂子は一人で入浴の工程を全てやり遂げることができたようだ。
 わざと乱すようにした髪を真夕が笑うと、「怪我人に悪戯しないでよ」と比呂子がむくれて口をとがらす。ごめんごめん、と真夕は後ろ側に回ると、お詫びと言って丁寧に肩口ほどまでの長さの黒髪を梳いた。
「なんか、不思議な感じ」
「んー? 何が?」
「だってこうしてると、いつもと立場が全く反対になったみたいな気がして」
 そうかもね、と比呂子は気を悪くした様子も見せずに笑顔を作った。
 タクシーを降りて比呂子の部屋に入ってからの雰囲気は、とても和やかなものだった。このところ氷那とのこともあり、以前に比べればやはりどうしてもよそよそしさが完全に拭いきれなかったりもしていたのだが、今日に限っては全くそういうことが気にならなかった。
 むしろこうしていると、以前よりも親しさが増したような、そんな錯覚さえ起こしてしまいそうにもなる。
「比呂子さん、お腹は減ってない? 移動中何か食べた?」
「あ、そういえばもうこんな時間か。色々あったせいですっかり忘れてたよ」
 言われてみて真夕も気づけば、既に時間はかなり遅くを回っていた。若干の余裕はあるとはいえ、帰りの電車もそろそろ気にしなくてはいけない時刻になりつつある。
「食事は、遅いから今夜はもういいや。真夕は?」
「私は…。私も、別に」
 真夕は腰を上げると、洗面所からドライヤーを持ち出してきた。すっかり任せっぱなしを決め込んだ比呂子が気持ちよさそうに目を閉じるところ、真夕は力を込めすぎないように順に風を当てていく。
 回転する機械の音にやや会話が途切れ、無言のまま真夕が単純作業的に手を動かしていると、次第に沈み込んでいくかのような考え事が始まってきた。
 こんなふうに比呂子に優しくすることは、果たして氷那を裏切っていることになるんだろうかと思う。だけど、普段ならいざ知らず今はこんな事態なんだし、悪いことをしているなんてことにはならないはず、と思い返す。
 だけどそれはもしかしたら自分に対してしているだけの言い訳に過ぎないかもしれない、ともまた思う。実際自分はこんな時間になっても「もうすぐ帰るから」という言葉をなるべく言いたくないと思いながらこうして比呂子の体に触れていたりするのだし。
 一度は比呂子は自分との関係を拒絶したのだ。ともすればこうして距離を近くするようなことは比呂子に迷惑をかけることにもなりかねない。だけども今の比呂子はとても芝居とは思えないくらいに機嫌が良い。もし迷惑でないとしたら……どうなんだろう?
「真夕?」
 不意に顔を向き合わされ、真夕は我に返った。どうかした? という比呂子の言葉に、自分が知らず与えられた仕事の手を止めてしまっていたことに気が付いた。
 謝って続きをしようとしたが、比呂子は「もう十分だからいいよ」とつけっぱなしのドライヤーのスイッチを切った。
 真夕の考え事の内容をさとってでもいたのか比呂子も無言のままで、突然騒音のなくなった部屋がとても静かすぎるために、真夕は自分の心臓の音を意識してしまいそうにもなってしまう。
 その沈黙を破るように軽くため息のような息をついたあと、先に口を開いたのは比呂子の方だった。
「今日はどうもありがとう。遅くなってごめんね」
「あ、ううん。そんなこと、全然」
「ここから駅まで少しあるし、またタクシー呼ぼうか」
 促されるかのように言われ、比呂子は立ち上がりかけた。考え事途中で心の準備が十分に整っていなかった真夕は慌ててしまい、反射的にその手をとろうと手を伸ばす。だけどもそれはあいにく怪我をしている方で、一瞬だけとはいえ強く握る力を加えられた比呂子は「うっ」と軽くうめくような声を出すと、半分ほど浮きかけた腰を落としてついた。
「ご、ごめんなさい! 本当にごめん。大丈夫だった?」
「うん。怪我は、別に。ちょっとびっくりしただけ」
 だけど、と比呂子は手首をおさえつつも再び時計を見上げた。つられて同じ時刻を確かめさせられてから、真夕は比呂子と向き合い直す。
「泊まってっちゃ、ダメ? 明日はどうせお休みだし」
「私はかまわないけど。でも、それはしない方がいいんじゃない?」
 じっと比呂子に見据えられると、その先にある言葉は言わずとも強く真夕の心に伝わってくるようだった。
 今日はたまたま氷那とは約束がなかったとはいえ、だからといってここで自分が比呂子と朝までいることを先に許してもらっているわけじゃない。理由はどうであれ、誤解を招くような行動はあまり褒められはしないだろう。状況や道義や、そんなことは真夕だって十分にわかっているつもりだった。
 だけども、と真夕は返事を濁らせたままうつむいた。畳んだ自分の膝の先をじっと見つめ、次に何をどう言えばいいんだろうか、と考える。
 その間お互い黙ったまま時計の秒針ばかりが元気良く音を響かせ、それが何周かを終えた頃、ようやく真夕は視線を自分から相手へと移し変えた。
「比呂子さんは今夜、私に帰って欲しいって思ってる?」
「えっ? なんで? どうしてそんなこと聞くの?」
「どっち?」
 詰め寄る真夕に戸惑い顔を向けて、一呼吸のあと比呂子は静かに首を横に振った。
「そういう言い方は、フェアじゃないよ。真夕」
 どういう意味、と真夕が尋ね返すと、比呂子はだって、と表情を固くした。
「私だって深海さんのこと嫌いじゃないもの。恨まれたくなんてない」
 遠回しな言い方をしてかわそうとする比呂子だったが、真夕はだけどもひるむことなく食い下がって続けた。
「その言い方って。じゃあ、比呂子さんは本当は私がここにいてもいいって思ってるっていうこと? そうなの?」
「だからそれは…」
「どっち!」
 らしくないほど強気な真夕に気圧される形で、比呂子はしまいにはその言葉を認めて頷いた。
 真夕はそれを見て満足そうに笑顔を作った。
「良かった。もし、比呂子さんに邪魔に思われてたりしたら、どうしようかって心配したから」
 一方的にそう告げると、真夕は「そうと決まったところで、お風呂借りるね」と崩した膝を立ち上げた。部屋を去りかけたところを捕まえるように、後ろから比呂子が声をかける。
「真夕。もう一度よく考えてみてよ。私は、」
「心配なんてしないで。私は自分のしたことの責任を後になって比呂子さんに押し付けちゃえるほど、器用に立ち回れる性格してないよ」
 言葉途中で振り向き返事をした真夕と、比呂子の目がまともにかち合った。真夕の黒目がちな瞳が、いつにも増してきれいな色をしているように、比呂子には思える。
 真夕は笑顔を作り直すと、出来る限りに朗らかな口調でこう言った。
「実はもっと話したいことってたくさんあるんだ。だけどそれは後でね」
 申し訳ないんだけど着替え貸してもらえる? と言い残し、返事を待たずにさっさと真夕はバスルームの扉を閉じた。
 後ろ手にドアのノブを握り締めたまましばらく待つと、真夕は微かに室内に残っている比呂子の足音の気配を聞くことができた。
 そこで天井を見上げて大きく一つ息を吐き、真夕は自分の着ていた服を脱ぎだした。