OL小説:「A.O.L.」その18

 比呂子が出張に出てから今日で3日目になる。
 急に決まった話というわけではないが、それでも真夕は隣にある空の机を見るたび、落ち着かない気分になってしまう。出張先は以前真夕も一緒に出かけた例の新設工場で、操業を始めてしばらく経ったことで見つかったいくつかの不具合について、調整を手伝って欲しいと前々から呼ばれていたことだった。
 名指しをされていたわけではなく真夕と比呂子のどちらでもよいと先方には言われていたのだが、今はちょうど真夕の研究途中のものが新しく商品として売り出せるかという検討の真っ最中で、とてもじゃないけど真夕が-----ましてや比呂子と二人でなんて-----出向きたいと言えるような状況ではなかった。
 出発前「面倒を押し付けるみたいでごめんなさい」と真夕が謝ると、比呂子はこともなげに「お土産買ってくるから、留守番よろしくね」といつものように飄々とした返事をしてきた。それがあまりにも平然としすぎるもので、自分とその土地であったはずの出来事を、比呂子はすっかり忘れてしまったんじゃないかと真夕が疑いたくなってしまったくらいだった。
 前回の出張での経験から、早くても3日、長くなれば一週間かそれ以上という今回の日程は一人でこなすには大変過ぎる仕事量なんじゃないかと予想できたこともあり、真夕には比呂子が出かけたその日からずっとそのことが気にかかって仕方がなかった。
 そんな真夕の気持ちは、その夜部屋に来た氷那にはすぐにわかった。わざわざ聞き出そうとするまでもなく、真夕がしてくる会話のあちこちには、やれ今日は仕事で比呂子がいなくてこう困っただとか、机の上に置き去りになっていた資料について何も言ってこないのだけど大丈夫なんだろうか、と、そんなことばかりが顔を出してくるのだから、気取るための苦労なんてあってないようなものである。
 いいかげん会話が途切れたあたりで氷那がそのことを真夕に告げてみると、真夕はようやく自分の態度に気が付いたのか、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「私、そんなに比呂子さんのことばっかり話してた?」
「してた」
 怒ってる? と気弱そうに尋ねてくる真夕に、氷那はわざと無言で肩をすくめる。大げさに機嫌を損ねた振りをしてもよかったが、そんなふうに相手を追い詰めるようなやり方をしたって仕方のないことだと氷那にはわかっていた。
 どう謝るべきなのか、謝るべきことなのか、よくわからないらしく不安な表情をした真夕の肩を軽く叩くと、氷那はうつむく顔に下から覗き込むように近づいた。
「比呂子さんのこと、気になる?」
「うん。だって…」
 言い訳めいたことを付け足そうとする真夕の口元を指先で止めると、氷那は「当たり前だよね」と笑いかける。
「多少関係に変化があったとはいえさ、真夕にとって比呂子さんが仕事上の切っても切れないパートナーであるってことは、どうしたって本当のことなわけでしょ? そこまで取って代わろうなんて私は思わないよ。代わりたくたってそんなのは無理、だしね」
 同意を求めると、とても素直に真夕は肯定の返事をした。
 色々あったがそもそも氷那は二人でいるときに真夕が比呂子の話をするのを禁止していたわけじゃなかった。というか、真夕にとって比呂子が関連する話をするなというのはイコール、会社や仕事に関しての話をするなと言っているも同然だった。
「それはわかってるつもりだけどさ。でも、あんまり意識されすぎちゃってるっていうのは、私にはおもしろくないことかも。真夕、もしかして比呂子さんのことをまだ…」
「違うよ! そんなこと、絶対にないよ!」
 氷那の言葉を遮って真夕は強く否定した。大げさなくらいに首を振って、何度も「もうそういう気持ちは吹っ切ってある」「比呂子さんともきちんと話し合ったことだ」と繰り返し繰り返し言って聞かせてくる。
 感情が高ぶってきたせいか真夕が半涙目になってきたのがわかって、氷那は慌ててその言葉を押し止めた。
「わかったよ。わかったから、ね? 意地悪な言い方をしてごめん」
「ねぇ氷那。私には、氷那はとても大切な人なんだよ」
 必死にそう言う真夕に「ありがとう」と氷那は笑った。真夕はそういうことを嘘で言える性格ではないし、実際にそう思ってくれているんだろう、と氷那は思う。
 ぎゅっと真夕の首を抱きこむようにして氷那が体をつけると、その背中に真夕もすぐに手を乗せてきた。
「私は、真夕のこと信じてるから。これでいい?」
「ごめんね。今度から気をつけるね」
 一度強く抱き締めあって、話はそれで終わりということになった。実際、真夕はその日それ以上に比呂子の名前を出すことはなかった。
 テレビをつけると話題も自然と変わって、二人はしばらく映し出されるニュースや芸能人についてなどの世間話で時間をつぶした。
 途中、珍しく真夕の家電話が鳴り、実家からのものらしい会話を聞かれるのを恥ずかしがった真夕が席を外すと、氷那は部屋に一人取り残されることになった。
 一人になって、氷那はぼんやりしているうち数日前に実花から聞き出した話を思い出した。ここ何日か、真夕の顔を見るたびに言おうかどうかと迷い続けてきたことでもあった。
 あるいは真夕も何か知っていたり勘付いていたりはしていたかもしれなかったが、香澄はそれからも何度か比呂子に対して行動を起こしているらしかった。だけども比呂子がそれに応じているかどうかまでは、実花にもわからないという。
 どうしていっそ付き合ってくれないんだろう、と氷那は思った。誘いを続けているということは、きっぱりと断ったというわけでもないんだろう。付き合う気もないのにズルズルと自分に気を引かせて楽しむような性格ではなし、こんな優柔不断な態度は比呂子には似つかわしくなかった。
 もし、真夕に自分の知っていることを全部ばらしてしまって、そして真夕の口から比呂子に直接尋ねさせたりしたら、何か変わったことが起きるんだろうか、と氷那は考えた。
 だけどもそんなことをしたら逆に何がどう転ぶかわかったものではないし、それに自分は比呂子と香澄のことについては相談すら受けたことのない噂を聞いたというだけの単なる第三者なのだから、ごちゃごちゃと口を挟むのはいささか図々しい気がした。
「お待たせ。もー、人が来てるっていうのに遠慮がなくってさ。参っちゃうよ」
「それだけ真夕のことが心配だってことでしょ? ありがたいことじゃない」
 電話の子機を戻しながらブツブツと真夕は文句を言って氷那の隣へ戻って来た。
思ったとおり電話の相手は実家に住む真夕の親からだった。
「それはそうなんだけど。でもいつまでたっても子ども扱いっていうか、いまいち信用がないみたいなんだよね。大丈夫だって何回も言ってるのに」
「あはは。その気持ち、ちょっとだけわかるかも」
 続きの言葉を言いかけて、氷那は直前で口をつぐんだ。「なんとなく、真夕の自己評価は信用しきれないときがあるから」とは、今は言ってはいけないと思った。

          *

 内線の電話を受けていた課長がいきなり声色を鋭くしたのを聞いた瞬間から、嫌な予感はしていた。
 電話を切ってすぐ、深くため息をついて椅子に深く体を埋めた課長の周りに、仕事の手を止めた数人が集まって環を作った。真夕がその隅の方へ体を割り込ませると同時に、課長は心底参ったふうに首を振って頭を抱えた。
「さっき出張先から連絡があったらしい。樫原が試験中に怪我をして、病院に運ばれたという話だ」
 ガツン、と頭を殴られたような衝撃があったような気がした。他の面々がざわざわと顔を見合わせている。更に詳しい話を聞き出そうと数人が課長に詰め寄ったが、先方もとても慌てているらしく、それ以上のことはまだはっきりとはわからないということだった。
「とりあえずは命に別状があるようなものではないから、心配はいらないとは言っていた。何かあったらすぐに連絡をくれるようにも言ってある。みんなも変に動揺しないように」
 そうは言われても、と真夕は思った。一応は納得したらしい他の人たちは課長の机から徐々に自分の仕事へと戻っていったが、真夕は最後までそこから動き出せなかった。
 課内での二人の様子をよく知っている課長はそんな真夕を気の毒に思ったのか、「もし大事だったらもっと慌ててるはずだから」と励ますように言ってくれ、そこで真夕はしぶしぶながら自分の席へと戻ることにした。
 第二報が来たのはそれから小一時間ほどあとのことで、今度は先ほどとは打って変わって、課長の受け答えはかなりほっとしたような態度をしていた。
 ほとんど仕事を手付かずでいた真夕のことを真っ先に呼び、比呂子について「今日の夜にはこっちに到着するはず」と告げた。
「向こうもいろいろバタバタしているらしくて十分な情報はまだだが、今日こちらに帰るという予定だったらしい。もう旅館は引き払ったから、これから新幹線に乗るんだと」
 それから終業の時間まで、真夕は本当に気が気でなかった。何度も何度も時計を見上げては、早く時間が過ぎないかということだけを考えて、時計のタイマーがいつもの音色を鳴らすとほとんど同時に開発室を飛び出した。

          *

 駅のプラットホームに降り立ってすぐ、比呂子はきょとんと目を丸くした。先にメールで「迎えにいくから」というメッセージは受け取ってはいたが、まさかホームにまで入って待っていてくれるとは予想していなかったからだ。
 真夕は車両から降り立つ比呂子の姿を見つけてすぐに駆け寄ると、痛々しく包帯を巻きつけられた左手を取った。
「比呂子さん、どうしたの? なんでこんなことに?」
 比呂子が何か返事をしようとするのを(決してそんなつもりはないのだろうけど)遮るかのように「だから一人でなんて行かせなきゃよかったのに」とか「十分な安全確認をさせてもらえなかったんじゃないの?」とか真夕が言葉をまくしたてる。
 その様子にさらにしばらくの間ポカンとしていた比呂子だったが、いきなり思い出したように吹き出した。大笑いを始めた比呂子に今度は逆に真夕が驚いて、必死になっていた態度をやっと落ち着かせた。
「どうして笑うの? すごく心配したんだよ」
「いやー。まさかそんな一生懸命になってくれるなんて思ってなかったもんだからさ。うん。びっくりしちゃった」
 そう言ってなおも笑いつづける比呂子を前に、真夕は恥ずかしさで顔が赤くなった。抗議をしかけたと同時にぴたりと比呂子は笑うのをやめると、真夕の頭に軽く右手を乗せる。
「何で来た? 電車? 駅前からタクシー拾おっか」
「比呂子さん! あの!」
「私の家まで送ってくれるんじゃないの?」
 数歩先に歩いてから振り向いて、比呂子はにっこりと真夕に微笑んだ。真夕はその顔に再び顔を赤くなるのを感じながらもその後を追い「荷物持ちます」とすねたるような声をかけた。