OL小説:「A.O.L.」その17

 あっさりと口約束を反故にされたことについて、本当であれば怒って反論してももよい立場のはずだった。だけども比呂子がそうしなかったのは、心のどこかではこうなることを予想していたからだった。
 待ち合わせをした賑やかなレストランバーでは、向かい合って座った香澄はまるで開き直ったかのようで、比呂子に対して親しげに会話を進めていた。もし本気でこの香澄との関係を完全に断ち切ってしまいたいと思うのであれば、以前に誘われた時点でその気はないとはっきりと意思表示をするべきだったし、もっと言うならこうして改めてされた呼び出しに応じてはいけない。わかってはいるもののそれができないということは、まだ自分の中に迷いがあるからなんだろうな、と比呂子は他人事のように思う。
 会話が途切れたところで、香澄は自分からは話題を探そうとはしてこない比呂子を見て、少しため息をついた。
「そんな面相くさそうな顔をしないでくださいよ」
「え? 違うよ、そんなつもりないのに」
 否定させるつもりでわざと言った台詞らしく、香澄は慌てた反応をする比呂子に笑顔を向けた。比呂子は決して不味いというわけではないのだが、どうも楽しむ気にはなれない目の前の食事を中断させ、口元を正しながら香澄にきちんと向き合った。
「ごめん。やっぱり私、付き合えない。その、香澄のことがどうとかっていうんじゃなくて。自分自身、きちんと気持ちの整理がつかないの」
 香澄はやや伏目がちに、比呂子がそう言うのを黙って聞いていた。言い立てようとすれば、いくらでも理屈を並べることはできたのだろうが、比呂子はそれ以上のことは言おうとはしなかった。
 間をおいて、比呂子の言葉が途切れたことを確認してから香澄は口を開く。
「私は何も、すぐに返事が欲しいわけじゃないんです。待つだけならもう十分過ぎるくらいに待ったんだし。いきなり押し付けるような言い方をしても比呂子さんが納得しないってことくらい、私だってわかってます」
 以前付き合っていた頃にはなかった、冷静で感情を隠すようなものの言い方だった。比呂子はこういう気持ちの駆け引きは、もう少し以前の自分であれば楽しんでやっていたんだろうな、と思う。
 相手がそれをできるようになった頃、自分はそれに疲れているなんて、歳の差や月日の流れというのは随分と皮肉にできている。
「比呂子さんが気持ちの束縛を嫌うんであれば、私はそれを強制しません。お互いに苦痛にならない距離感が必要なら、それを保てるように私も努力するつもりです。どうでしょうか?」
 おそらく香澄なりに説得する言葉を考えてきたんだろう。比呂子は感情的にならないようにと自分に言い聞かせた。
「少し時間をもらえる?」
「もちろんです」
 それから比呂子が「どうして今頃になってそんなことを言い出す気になったの?」と尋ねると、香澄は経理課で実花の話を聞いたことを持ち出した。
「それまでは、本社勤務になって、比呂子さんに会ったり話をしてもらえるだけでもいいって思ってたんです。だけどもそのことを聞いて、もしかしたら比呂子さんが自分以外の人と寝てたりするんだろうか、って考えたら、一気に自分の中で本音が吹き出てきたみたいになって。思ったんです。やっぱり私は今もまだ…っていうよりも、ずっと、比呂子さんのことが好きなんだって」
 比呂子は微笑むと「ありがとう」とだけ短く感想を言った。

          *

 天井から決まったリズムで落ちてくる水滴が、隔離されたスペースの炭の上に落ちるたびに蒸発する音を立てる。実花は腰を覆っていたタオルを取り上げると、額から止め処もなく流れ落ちてくる汗を拭った。壁にかけられた砂時計が全部落ちるのを確かめてから、それを改めてひっくり返す。
 その時計を一緒の目安にしていたのだろう、もう一組の女性客が立ち去ると、広めの造りのサウナ室には、実花と氷那の2人きりになった。
「我慢できなくなったら、先に出てもいいんだよ」
 自分は行き着けにしている場所なのでまだまだ平気、と実花が言うと、氷那は同じく大粒の汗を流しながらも、もう少し行けます、と返事した。
「限界ギリギリまで頑張るって感じ、わりと好きなんですよ」
「頑張りすぎるのもよくないよ」
 当初は一緒に飲みに行く約束だったのだが、よくよく話を聞いてみたところ実花はとあるエステクラブの会員であるということで、たまたまやっていたキャンペーン期間という都合のよさもあり、面白半分に氷那はその「ご紹介客」として一緒についていくことにしたのだった。
 人のいないことをいいことに、実花は木製の段差の一角を占領するように体を横に倒す。氷那はサウナの熱さそのものというよりは、そうした真っ裸でくつろぐ行為に慣れが薄いのか、実花のそれよりだいぶ遠慮がちに足を崩して座るだけにした。
 普段は時に生意気と思えるくらいにしっかりとした意見と勢いを持って仕事をしている若手エースの氷那が、案外とそういうところおしとやかなんだな、と思うと実花は少しおかしかった。
「さてと、それじゃそろそろ聞かせてもらえないかな。せっかくの裸の付き合いなんだし」
 どうしても、で呼び出したんだから聞いてもらいたい話があるんでしょ? と実花が催促をすると、氷那はまずちょっとだけ戸惑ったような顔をした。
「ここで…ですか?」
「何よ。何か不都合なことでもあるの?」
 話をするのは、かまわないんですけど、と氷那は言って誰もいない周囲を見回す。それから苦笑いのような表情をして、「余計な心配とかは、しなくていいってことは先に言っておきますね」と実花に見えるように自分の身体を遠ざけるふうに動かした。
「実は私、最近付き合う人ができたんです」
「へぇっ! 良かったじゃない。それでここのところ妙に機嫌が良かったんだ」
 そうなんですけど、と氷那は言葉を濁した。実花は横にしていた体を起こして座ると、逆に氷那に顔を近づけるようにする。
「社内の人? 私も知ってる?」
「知ってるとは思いますけど。聞きたいですか?」
「ここまでふっておいて肩透かしはよくないね。言いかけたんなら全部言ってよ。まさか、人には言えないような関係とか?」
 その冗談を氷那がはっきり否定をしなかったので、実花は熱いサウナの中にありながら一瞬ヒヤっとしてしまった。短い会話の隙間にそれらしき人間関係を思い浮かべて、まさか役員クラスの妻帯者と不倫?! とまで勘ぐった。
「それがその……その人なんですけど」
「うんうん」
「女の人、なんです」
 がくっ、と力を込めてしまっていた肩を大きく落とした。実花は大きく首を振ると、「なぁ~んだ」とまるでほっとしたかのような息をついた。
「驚かないんですか? 実花さん」
「驚くも何も。あー、まぁね。そのへんは」
 耐性が出来てるから、と言いかけた口を慌ててつぐんだ。かつて教育係として新人研修に参加していた頃はそれなりに戸惑いもあったが、時間の経過とともに感覚が麻痺してきたのかそれとも感化影響が強かったのか、段々とそれもそれ、と受け入れることができるようになっていた。
 同時にそこで先に氷那が自分から身体の距離を離したのは、その告白をすることで、こっちが勘違いから逃げ腰になるだろうことを見越しての予備的な気遣いだったのか、と気がついた。
 実花はそんな相手の警戒感を解こうと、わざと「私のことなら平気だから、余計な心配しないの!」と氷那の裸の肩を軽く叩いて触れた。
「なんか、慣れてますね。実花さん、もしかして他にも誰か女の人と付き合ってる知り合いがいるんですか?」
「うーんとね。付き合ってる、っていうか、いたっていうか。でも、どっちにしろ別にどうってことは。それとも私のことを好きで『襲ってヤりたい』とか思ってたりする? それなら話は別だけど」
 えー、どうしようかな、実花さん美人だし、と氷那はふざけて笑った。その表情から、実花は自分に脈がないことをはっきりと悟る。
 数年前にも、そういえば似たような返事をされたことがあったっけ、と思い出していたりもした。
「ところで、その相手ってのは? 聞いてもいいよね」
「はい。でも、内緒でお願いします」
 すっかり安心をしたように、氷那は実花にその人の名前を教えた。実花は聞いてすぐ「え???」と聞き返してしまったが、二度三度と繰り返した氷那にしっかりと確認をさせられた。
「嘘? 本当に? …はぁー」
 そこで先ほど返した砂時計がまた落ちきるところが見えた。ちょうどよく次の客である若い女性の二人連れがサウナの扉を開いて賑やかな会話とともに流れ込んでくる。
 実花はすっかり頭から足先まで水分を出し切った体を持ち上げると、氷那にも出ようと合図した。出てすぐ、軽く浴び湯をしてから17度と表示のある水風呂に2人でつかる。
「変ですか? 実花さんから見て、うまくいかなさそうに思えますか?」
 そういうわけではないけれども、と実花は言った。入った当初は飛び上がるかのような冷たさだった水も、火照った体が慣れてくるにつれ、内側から熱を出してくるのを感じられるようになる。
 実花が水から出ると、氷那もその背中を追いかけるようにして行った。
「いつの間に、っていうか。よりにもよってそうきたか、って感じだよね。でも、よく承知したね。時任さんも、氷那のこと『好き』だったってこと?」
「それは…」
 多少自分に強引なところがあったというのは認める。だけども、好きか嫌いかということになれば、きっと真夕は自分のことを好きと思ってくれているはず、と氷那は応えた。
 不安そうな氷那にちょっと同情したのか、実花はうつむく頭を一つ撫でると、励ます言葉をかけた。
 その後2人は各種浴槽を回りマッサージを受け、すっかりコースを堪能しきってからロッカールームに戻った。
 並んだロッカーで着衣をする途中で、ふと実花は動きを止め、氷那の顔を見つめる。氷那がそれに気づいて目を合わせたところで、実花はやれやれ、という感じに首を振った。
「でも、これでよかったのかな。色々な意味で」
「それって、どういうことですか?」
 黙っておくべきことなんだろうけど、と実花は言う。わかってはいたが、どうしても言ってしまいたかった。これまでずっと自分一人だけの胸にしまっていた重荷は、思っていた以上に重かった。
「新しく経理課に来た、佐倉さんて知ってるよね」
「はい。この前少し会いましたから」
 実花は自分のロッカーを閉じると、キーを勢いよく回した。
「あの子ね、昔。比呂子と付き合ってたの。いろいろとあって別れたんだけど、少なくともあの子はまだきっと比呂子に未練があるんだと思う」
 氷那は着替えの手を止めた。実花はそれ以上の詳しい話はしなかったが、だけどもそれまで自分の見てきたことや感じたことから、その言葉が裏づけなしに正しい話なんだろうとすぐに信じることができた。