OL小説:「A.O.L.」その16

 仕事帰りに心をはやらせてやってきた真夕の部屋だったが、はしゃぐように自分が出した提案への返事のあまりのそっけなさに、氷那はむっと口を尖らせた。
 テーブルの上のイベント情報誌を押しのけるようにしてテレビのリモコンを探し出すと、目いっぱいの力をこめて電源スイッチを勢いよく押す。バツンと大きな音がしてそれは切れた。
 その激しさにやっと我に返ったのか、真夕ははっと体を起こして氷那を向いた。
「今の話、ちゃんと聞いてた?」
「ごめん。何だったっけ」
 思った通り、真夕は氷那が勧めた週末のイベントについての話を、ほとんど全くと言っていいほど覚えていなかった。真夕にされた気のない生返事の相槌に対し、氷那はあからさまに不愉快そうな態度を見せると、「もういいよ」とくるりと背中を向けて膝を抱えた。
 それを見た真夕はひどく慌てて、テーブル越しの位置から氷那のすぐ背後にまで移動をする。
「ねぇ、本当に悪かったって。誤るからさ、機嫌直して?」
「どうせ真夕は私とどこかに行くよりも、テレビ観てた方が楽しいんでしょ」
 ケンカを売るように言った氷那の言葉だったが、本当の原因がそれではないということは最初からわかっていた。確かにテレビはついていたし、真夕も画面を見ていたりもしていたが、そこに映し出される内容について、自分の話同様真夕が右から左で流していたことなど、注意深く観察するまでもなかった。
 そんな真夕の態度が決して悪意から来たものではないことも氷那は知っていたが、それにしても付き合って最初に迎えることになる週末に対しての気持ちの温度差には、やっぱり少しなからず腹が立つものがあった。
 この数日間を心躍らせて過ごしてきた自分は一体何だったの? と思うと、泊まるつもりでしっかりと準備をして訪れたこの部屋からも、いっそ出て行ってしまおうかとさえ考えてしまう。
「本当にごめん。もう絶対にしないから。氷那、こっち向いて。お願い」
 謝罪する言葉に嘘はないらしく、氷那の背後から聞こえる真夕の声は半泣きになっている。しばらくそれをされていると、氷那はまるで自分の方が悪いことをしているかのような気分にもなってきて、肩越しにちらりと真夕の表情を窺った。
「許してあげてもいいんだけど」
「うん。どうしたらいい?」
 ようやく軟化を見せた氷那にほっとしたのか、真夕は駆け引き下手に手放しで許しを求めててくる。氷那は向けていた背中を反すと、顎を突き出すようにして自分の口元を指差した。
「んじゃ、キスして。真夕から。それでいい」
 いかにもなシチュエーションだな、と氷那が自分の行動のベタさに内心ではちょっぴり照れくさく思いながらも引かずにいると、わかった、と真夕は言われるままに手を伸ばして氷那の頬に触れた。
 こういう迫り方をしたら真夕は照れるか嫌がるかするんじゃないのかな? と氷那は予想をしていたりもしたのだけれども、実際には意外にもしっかり丁寧に真夕は氷那の唇をはんできた。
 そういえば忘れかけていたけれども、真夕は自分よりも年上だったっけ、と氷那は思い出す。それに真夕はそもそも律儀な性格だし、と自分の甘かった読みに、氷那は私もまだまだだな、と思った。
「…これでいい?」
「うん。十分」
 贖罪のキスは終わったが、その熱っぽさは必要以上のものだったらしく、氷那は離れかけた真夕の首筋を引き戻すように手を伸ばした。再び唇を合わせながら、氷那が真夕の指先にからめるように自分の指を差して入れると、息継ぎの合間に真夕が艶っぽいため息のような声を漏らした。狙ってやっているわけではない-----狙ってやっていたならここまでの効果が出るはずがない-----だろうが、真夕のこういう時の声色には、かなり背筋を走り抜けるものがある。
 氷那はそれまで「もう少しあとで」と踏みとどまらせていた気持ちがそこで一気に弾けたようで、唇から顎のラインへと頭をずらし、首から肩へ噛み付くように下ろしていった。
「しちゃってもいいよね」
「うん…でも…」
 まだ時間が早いとか、明日も仕事だとか言いたいことはなんとなくわかったが、氷那はその先を言わせずに、後ろのベッドに自分から乗って真夕の手を引き寄せた。待って、と部屋の明かりを消そうと体を伸ばしたところに抱きつくように、胸元のボタンを外して肌に唇をつける。暗くなると同時に倒れ込むと、氷那は壊れ物を扱うかのようにゆっくりと真夕の服を脱がせながら細かいキスを重ねた。
「本当は、次の日にもまたここに来たかったんだよ」
 毎日でも会いたかった、と氷那は真夕の耳元近くで言った。うん、と曖昧な返事をする真夕に自分の胸元を触らせて、「真夕はそうじゃなかった?」と返事を強く促す。
「私も、会いたかったけど…」
 けど、何? と意地悪く氷那は尋ねる。それ以上はつぐもうとする真夕の口に、氷那は自分の指をふくませるようにして入れた。しっとりと人差し指全体に舌先が行き渡ったのを確認してから、氷那はその利き手で筋を残すようにしながら体のラインを下へ下へとなぞっていく。
「私とのこと、誰かに話した?」
「そんな。誰にも」
 足の付け根に触れる瞬間、恥ずかしそうに顔を横に振るのを見逃さないように氷那は視線を上に向けた。ぎゅ、とそれまで腕半ばに添えるようにしてあった真夕の指に遠慮がちな力が入ったのを感じると、氷那は満足そうに自分の足を真夕の間に閉じないように入れさせた。
「構わないよ。私は、誰に話されても」
「そうなの? ん、でも」
 半分以上は本気だった。そのふっくらと小さな形の唇にも似た、柔らかい部分を氷那は二つの指を使って広げる。小さな動作の一つずつについてくる相手の反応が新鮮で、そうして触れる動作のたびに相手のことをかわいいと思ってしまっている自分がいた。
 手近にあったクッションを拾い上げると、腰の下へと入れさせる。少し上を向いた角度になった相手の下半身は、体勢を楽にさせようとした親切心からのものなのか、それとも単に自分の気持ちを煽ろうとしてしたことなのか、氷那はよくわからなくなった。
 しばらく手繰るように指先を動かして、それまでやや内向きに力が入りがちだった真夕の膝が、力を緩めて微かに開いたのを感じると、氷那は目を開いて慣れた暗闇の中で真夕の顔を見下ろした。小さくうなるような声がして、氷那が自分の体を倒すようにして重ねる。
「私のこと、好き?」
「うん。好き、好きだよ」
 言葉が終わると同時に、氷那は真夕にキスをした。体を折るようなやや苦しい体勢に、一瞬小さな悲鳴が上がる。
 氷那は、自分の下で空気を抜けたように力を抜いていく真夕に体を重ねながら、しばらくじっとその呼吸の音を聞いていた。少しして体を横に倒すと、真夕もそれに合わせるように、対面する形で顔を向けた。
「どうかした?」
 氷那が無言でいる時間が長かったせいか、真夕が先に口を開いた。氷那はそこで、自分が考え事のようなものをしていたことに気が付く。
「どうってことはないんだけどね」
「まだ怒ってるの?」
 弱気なことを言う真夕の、額に氷那はキスをした。正直、もう怒るとかそういう気持ちはなかったが、変わって不安というか、気がかりなようなものに気持ちは形を変え始めていた。
 裸の真夕の肩口に指を触れて、悪戯をするように動かしていると、真夕はくすぐったいよ、とその指に触れた。
「前もこんなことしたよね」
「前? したっけ」
「うん。この前も、これと同じふうに。何か文字でも書いてるの?」
 言われてみて、そんなことをしたかもしれない、と氷那は思い出した。その時も確かに、今と気持ちは似たようなものだったかも、とも思う。
 それからしばらく、雑談というかまたたわいもない話を少しの間して、やや場の空気が落ち着き始めたかなという頃になって真夕は横になっていた自分の体を起こした。
「先にシャワー使ってもいい?」
「うん。どうぞ」
 ふざけてわざと氷那の体を乗り越えて、一度軽くキスをすると真夕は笑顔で浴室へ入っていった。残された氷那は、その背中を見送ってから、その水音を聞きながら身じろぎもせず、まとまりのない気持ちで天井を見つめていた。

          *

 シャワーの温度をいつもよりも熱く設定して、真夕は頭からそれをかぶった。長い髪の毛が自分の首に締まるように巻きついた。
 一人になると、途端に昼間見た景色が頭に浮かんできた。自分では気にしないように、見なかったことに、と思おうとしてきたことだったが、完全に振り払うとなるとそう簡単なことではなかった。
 そんなふうに思うのはまた、氷那と寝たばかりかもしれなかった。
 新しく支社から転属になった人がいることは噂に聞いていた。遠めになんとなく顔も覚えていた。だけども、まさかあんな形の接点があっただなんて、全く考えてなどいなかった。
 何か意見を言うような権利は自分にはないとはわかっていた。自分のしていることの手前、どうこう文句を言える筋合いではない。
 だけども、と真夕は思う。
「比呂子さん、あの子と付き合うのかな」
 途中からだったので具体的な話はわからないが、遠めに見ただけで二人がごく普通の同僚関係ではないらしいことは察しがついた。少なくとも、比呂子の表情だけでも、他の社内の人間関係で見せているものとは違うことに、真夕は気が付いた。
 熱いシャワーを出しっぱなしにしたまま、真夕は自分の顔を覆ってうつむいた。もしかしたら今こうしている瞬間にも、比呂子はあの自分とは明らかにタイプの違うあの子と、今自分が氷那としたばかりのようなことをしたのかもしれない、と想像をするとぐっと胸が詰まるような思いがした。