OL小説:「A.O.L.」その15

 二人きりになった研究室で、真夕は実験の手が止まるたびにちらちらと比呂子に窺うような視線を向けていた。今週に入って数日、しばらく大人数でする共同作業が続いていたのだが、その仕事も一段落つき、これがあの夜に気まずく別れてから真夕が比呂子と対峙することになった最初の機会だった。
 仕事中なのだから、と自分に言い聞かせながらミスのないように丁寧にサンプルのデータを取ろうとするものの、作業と作業の間にはどうしても目線が向かいの机で同じように薬品を混合している比呂子に向かってしまう。
 真夕はその平然とした普段と変わらない比呂子の表情に、ひょっとしたら比呂子はあの日のことも、自分に対しての気持ちさえ、全く気にもしていないんじゃないだろうか、というような気さえしてきた。
「話したいことがある?」
「えっ?!」
 それまで自分の視線に気づいていないようにも見えていた比呂子が、実験を続けながらそう言い出した。真夕は慌てて、目の前の用具をひっくり返さないように精一杯気をつけた。
 比呂子は自分の作業をゆっくり丁寧にまとめ終えると、下げていた顔を上げて真っ直ぐ真夕と目を合わせた。
「もし私に何か言いたいって思っていることがあるんなら、遠慮なく何でも言って。ちゃんと聞くから」
 親しいとはいえここまで堂々と作業中に私語を求めてくる比呂子は初めてだった。
 真夕はそう言われてしばらくもじもじと開きかけた口を閉じたりなどを繰り返していたが、ようやく決心がついたのか強く口を結ぶと、数歩進んで比呂子の隣にまで行った。
「比呂子さん、怒ってる?」
「怒る? 私が? どうして?」
 だって、と真夕は言いかけてやめた。ここ数日全く個人的な会話をしてこなかった不安で、なんとなくそんなふうに思いこんでしまっていた。比呂子は小さくため息をつくと、「そんなはずないじゃない」と諭すように優しく言った。
「私は逆に、真夕が私に腹を立てて、嫌いになっちゃったのかなって思ってた」
「違う! 絶対にそんなことない」
 真夕は返事の声を大きくさせかけて、恥ずかしそうに赤くなった顔をうつむかせた。比呂子はその様子につい微笑む。
 真夕はこの数日一人で考えてきたことを、ゆっくり言葉を選んで話し始める。
「私は…やっぱり比呂子さんとは、関係を悪くしたくないって思った。仕事仲間として、って割り切ったことじゃなくて。今まで比呂子さんにお世話になりっぱなしだった私が言うのは図々しいことなのかもしれないけど、それでも私はできれば今までどおりに、比呂子さんとは仲良く一緒にやっていきたいって思う」
 生々しい部分には触れないようにと細心の注意を払った。比呂子はその言葉を最後まで聞いて、うん、と何かを確認するように頷く。
「世話とか、私は今までそんなつもりなかったよ。私はただ、自分が一方的に真夕のことを気に入ってて、それでつい余計にかまったりとかしちゃってたんだし。真夕こそ、そういう私の態度を迷惑に思ってるんじゃないかなって。違うの?」
「当たり前じゃない」
 真夕は思わず比呂子の白衣の腕のあたりを握るように手を伸ばした。だけども触れてすぐ、あっ、と思い直してそれを放した。些細なこととはいえ、体の接触はそれまでとは違った意味-----例えば下心とか-----があるようで恥ずかしかった。
 比呂子はそんな真夕の回しすぎな気持ちも全てわかっていたようで、その拒絶のようにも見える態度を悪く思う素振りもせず、反対に自分から手を伸ばすと真夕の肩に手を乗せた。
「じゃあ、これで『仲直り』?」
「うん。そうしてくれる?」
 もちろん、と比呂子は以前と変わらないような笑顔を真夕に向けた。真夕は思わずつられて一緒に笑う。
「良かった。ここ何日か本気で悩んでて。でも、本当に良かった。このまま、比呂子さんに冷たくされちゃったりしたら、私、どうしようかって考えたんだよ」
「相変わらず真夕は真面目に考えすぎるんだから」
 ほっとした真夕が「ありがとう」と言って自分の席に戻りかけて、肩に乗っていた比呂子の手が離れた。離れようとした瞬間に、その指先が真夕の肩を滑るように二の腕を撫でて下りたような気がした。
 真夕はそれに少し気持ちが乱れそうになったが、振り返った比呂子の表情は全く変わらず、逆に真夕の視線に「?」というような顔を見せられる。真夕はまた考えすぎてしまったらしい自分に首を振ると、自分の席へと戻った。

          *

 食事を終えた昼休みに、比呂子は廊下の突き当たりに設置してある休憩室のソファーの上で読書をしていた。開発室のあるその階は出入りする従業員の人数も比較的少なく、一人の時比呂子がよく利用するお気に入りの場所でもあった。
 カツカツ、と狭い歩幅で階段を上ってくる音に気づいて比呂子が顔を上げると、ちょうど一人の人がこの階に到着をして、比呂子の姿を見つけたところだった。
「時任さんとは一緒じゃないんですね」
「うん。真夕は別の人とお昼は外に出かけたからね」
 そう言うと、香澄は比呂子の座るソファーのすぐ隣に腰をおろした。比呂子に「何を読んでいるんですか?」と尋ねたが、特にその本自体にはあまり興味はなさそうだった。
「他の人って? 社内の人ですか?」
「企画課の深海さんだよ。知ってる?」
 知ってます、と香澄は言って少し意外そうな顔をした。珍しい組み合わせですね、と言う香澄に、比呂子はただ肩をすくめて応えた。
「いいんですか? 大事な時任さんをとられちゃっても」
「別に。取るとか取らないとか、そういうことじゃないもの」
 からかうような香澄の言い方に乗ろうとせずに比呂子は言った。会話が長引きそうだな、と思って読みかけの本を閉じると、白衣のポケットの中にしまいこむ。
 やっと自分に向き合う体勢をとってくれたことに満足して、香澄は少し間を置いてから、改まった口調で比呂子に切り出した。
「一つ、聞きたいことがあるんです」
「いいよ。何?」
「比呂子さんが付き合っている人って、もしかしたら実花さんなんですか?」
 ぎょっと比呂子が目を丸くした。本気でそんなことを聞かれるとは全く予想もしていなくて、つい「どうしてそういうことになるの?」と尋ね返してしまう。
 答えてください、と強気に問いを重ねられて、比呂子は「違う」とはっきりと否定をした。
「じゃあ、付き合っていない、っていうだけで。ただ?」
「ちょっとちょっと。何が言いたいの?」
「わかってるはずです。比呂子さん、今何人くらいの人とそういう関係でいるんですか?」
 詰め寄るように体を近づける香澄の肩を、比呂子はなだめるように押し返した。相手が何かきっかけがあってそんな誤解をしているらしいことはなんとなく察しがついたが、そんなふうに思われている自分という評価が軽くショックでもあった。
 説得には時間が必要だったが、それでもしばらく話をしているうち、やっと納得をしてくれたらしく、香澄は「そうですか」と落ち着いて肩を落とした。
「それじゃ、今は比呂子さんは、誰とも付き合ったりしていないってことですか?」
「あいにくね」
 何気なく比呂子が見上げると、掛け時計が午後の業務開始5分前を指そうとしているところだった。比呂子ができたら社内ではしてほしくないような会話をもってきた香澄にそのことをどうさとそうかと思っていた矢先に、香澄は再び真剣な目を比呂子に向けた。
「なら、いいんですよね」
「ん? 何が?」
「私が、比呂子さんに『付き合って欲しい』って言っても」
 そこでちょうど時間切れらしく、ぞろぞろと開発室に二課の人間が戻り始めてきた。比呂子が困った表情をして「その話はまたあとで」と言いかけて席を立つと、追いかけるように香澄がその腕をとった。
「また、会ってくれますよね」
 比呂子がそれを曖昧に微笑んでかわすと、とりあえず肯定的に解釈をしたのか香澄は笑顔で一礼すると、その場から立ち去った。
 残された比呂子が困った表情で自分の頭を掻きながら開発室に戻ろうとしたところ、すぐ背後から名前を呼ばれ、振り向いた。
「あ、比呂子さん。今日はすみませんでした」
 外出から戻って来た真夕に、比呂子は気にすることないよ、と言って笑顔を作る。本当は一緒に食事をするつもりで社食にまで行ったのだが、急に呼び出されて一人で出かけたことを真夕は謝ったのだ。
 世間話として感想を尋ねる比呂子に、美味しかった、楽しかったという感想を真夕は言っていたのだが、なぜかその表情は言葉に対してどこか晴れない様子をしていた。