OL小説:「A.O.L.」その14

 明け方近くになるまで、氷那は真夕と並んで横になりながら本当に色々なことを話し合った。堰を切ったようにどんどん考える前に言葉が溢れてきて、話したいと思う気持ちが止まらなかった。
 忘れられない子供の時の出来事とか、観てきたドラマや映画の中の気になってしょうがないワンシーンだとか、好きな洋服の趣味や店の名前、譲れない食べ物の好みとか。他にもそれまで誰にも話して来なかった説明しづらい観念的な悩みや、今の仕事に対して持っている希望や不満、これからの人生設計やそこで叶えたいと思っている大きな夢など、長い朝までの時間、話題は途切れることなく続いた。
 暗闇だった部屋にうっすらと明るさが差し込み始め、間もなく新聞配達の自転車のブレーキ音と、ポストにそれを落とし込む音が聞こえてきた。遠くで列車の去っていく振動を感じると、氷那はそこでようやく瞼が重くなってきた。
 大きな欠伸をすると、うつぶせになっていた体を表に返す。眠い? と少し乱れた髪の間に手を入れて撫でてくる真夕に、氷那は目を閉じたまま微笑んだ。
「さすがにそろそろ。真夕は眠らない?」
「うん。じゃあ、そうする」
 シーツを掛けなおして二人であお向けに寝転ぶと真夕は、明日は休みだしゆっくりしていって、と声をかけた。だけどもその声が届くか届かないかというくらいの早さで、氷那は沈みこむような眠りに入っていった。
 あまりにも唐突なのでつい真夕はもう一度名前を呼びなおしてしまった程で、だけども氷那の表情の消えた整った顔に手をかざしてみると、指先には偽者ではないとはっきりわかる規則的な寝息が感じられた。
 寝そびれた、という感じなのか、対照的に真夕は部屋のカーテンの隙間からの光が徐々に黄色味を増していく様子をすっかり見終えてもなおまだ目が冴えたままで、少し待って仕方なくあきらめると一人ベッドから抜け出した。氷那を起こさないように引き戸一枚隔てたダイニングキッチンに出ると、物音に気を遣いながら自分の分だけのコーヒーをいれた。
 部屋を出るときに持ち出してきた自分の携帯電話は、昨日氷那が入浴している間に電源を落としてからまだそのままになっていた。小さなキッチンテーブルにつくとそれをゆっくりと開き、恐る恐る電源を入れてみた。先に着信音を消したのは正解で、待っていたかのように昨日の夜に受けていたメールが届いた。
 そうじゃないかと思っていた通り、メールは比呂子からのものだった。自分の部屋を出て行って何時間かあと、日付の変わる直前の時刻に「おやすみ」とだけ短く送ってきたのが内容だった。
 真夕はしばらくじっとその文面を見つめ、表示される今の時刻を確かめると、返信として「おはよう」と打ち込んだ。非常識なほど早すぎるという時間ではないが今日が休日ということもあり、すぐに返事が来るなんてことはないだろう、と思ってとった行動だったが、意外にも返信はものの数分もしないうちに真夕の手元に届いた。
「おはよう。早起きだね」
 それはお互い様、と小さく独り言をしかけて、真夕はさらに返信のボタンを押した。
 文面を考えようとして、今比呂子はどこにいるのか、昨日はあれからどうしたのか、尋ねてみたいとは思ったけれども、真夕にはそれをどう自分から切り出せばいいのかわからなかった。
 結局「いい天気だね」と当り障りのない文章だけを送ると、「この週末はずっと晴れって予想みたい」とやっぱり当り障りのない言葉だけが返されてくる。
 真夕は次の返信をしようとして急に、電話をかけたい気持ちがこみ上げてきた。どんな話をしたいということよりもまずさきに、直接声を聞きたいと思った。
 だけども今は薄い扉一枚の向こうで氷那が眠っていて、たとえそうしてかけた電話が気づかれないとしても、そういう問題ではなくこの状況で自分がその行動を取るなんてことは許されることじゃないような、そんな気がしてどうしても通話のボタンは押せなかった。
「それじゃ、月曜日に会社で」
「うん。じゃあね」
 そっけないほどあっさりと最後の一往復をさせると、真夕は携帯電話を閉じた。
 空腹の体には煎れたてのコーヒーの味はとても苦く、相変わらず眠くはなかったが、どっと疲れたような気分になって、真夕はテーブルの上に突っ伏すように体を倒した。

          *

 週が明けた数日後、氷那がいつものように経理課に清算をしに行ってみると、大抵いつも決まった席に座っているはずの実花の姿がそこになかった。
 他の人に頼んでもよかったのだけれども、この清算の仕事は誰が受け付けても結局は実花の手に渡って締められることになっていた(途中に別の人の手が入ると、実花の仕事がかえって面倒になってしまうことも往々にしてあった)。
 少し待っても戻ってくる気配がなかったので、珍しく呼び出しでもされてるのかな、と氷那が通りかかった手近な人に尋ねてみると、同じ経理課の人にやや奥まったところにある資料室を教えられた。
 入社以来一度も入ったことのないその場所に、氷那が覗き込むように入ってみると、実花はそこで見慣れない一人の女性と帳簿状の冊子を挟んで話をしていたところだった。
「あ、わざわざごめんね。すぐ戻るからもうちょっとだけ待っててくれる」
 そう言うと、実花は目の前の女性に途中までしていたらしい話をやや早口に続けた。それが終わるまでの少しの間、氷那はその言葉を熱心にメモする相手の女性のことをざっと観察してみた。
 小柄な体型と大きめの瞳のせいか、年齢はとても若そうに見える。だけどもハキハキとした質問ぶりや要領のよいメモの取り方の様子からして、仕事慣れしていない新入社員という感じではなさそうだ。どこか別のところで同じような仕事でもしていた人なのかな? と考えたところで、そういえば見たことがある人かも、と思いついた。
 氷那は記憶をたどってみたところ、いくらの時間も必要なく、すぐにその女性が例の支社の統廃合によってここに転属することになったという人だと気付いた。
 話が一段落ついたらしい実花に氷那がそうかと尋ねると、そうなの、とあっさりとその推理の正しいことを認めた。
「予定よりも少し時期が早くなったんだけど、今日から正式に経理課勤務ってことになったの。佐倉香澄さん」
「よろしくお願いします」
 各課への正式な挨拶はまた来週に伺います、と優等生らしい口調で香澄は言った。氷那が「これからは同僚なんだし、かしこまらなくてもいいよ」とわざと砕けたふうに返事をすると、人懐こい小動物のようにニッコリと香澄は笑った。
「かわいいでしょう? でも、この子すっごく仕事はできるんだからね。甘く見ない方がいいよ」
「頼もしい話じゃない。実花さんも助かるでしょ。これからしばらくは、実花さんの仕事を手伝うの?」
 一応私が直属の上司ってことになるのは確かだけどね、と実花はちらりと香澄に気を遣うような視線を落とす。
「ま、これからのことは様子を見ておいおいに、ってこと。まかせられる仕事はどんどんまかせて構わないって上からも言われてるし」
「すごいね。随分と期待されてるじゃない」
 氷那は「頑張ってね」と言いかけたが、香澄と目が合った瞬間、なんとなくそういう上から見下ろすような台詞は言わない方がいい、と思った。直感のようなものだったが、むしろその香澄の洗練されたような人懐こっさが、裏側にあるプライドというか自尊心の高さを感じさせるもののように、氷那には思えた。
 ちょうどいいから実際の仕事を見せるね、と実花を先頭に三人は経理課のいつもの机の前に戻った。氷那から受け取った領収書の束を、手際よく分類していく実花の様子を、香澄は半歩後方からじっと見詰めている。
 いつもは雑談などをしながらこなしている業務でもあるので、氷那は黙りこくっているのもおかしいと、世間話のつもりで手を動かす実花に話しかけた。
「そういえば、最近実花さんと帰る時間とか合わないですね。今度久しぶりにどこか食事でも行きませんか?」
「私と? あらー、昔世話を焼いてあげた恩をまだ忘れずにいてくれたのね。誘ってくれるなんて嬉しいじゃない」
 氷那が入社したての頃、仕事帰りにしょっちゅう一緒に出かけてはそこで青臭い相談を聞いてもらったりしていたのは本当だ。ここ最近は、自分の仕事が忙しかったのもあったが、その時期の自分の若さが思い出すと恥ずかしいということもあり、氷那は一方的に誘いにくく思っていた。
 それがこんなすんなりと誘う言葉を出すことができるようになったというのは、やっぱり真夕との関係を進めることができた、という自分としての「一歩進んだ感」ができたからなのかもしれないな、と氷那は自分で思う。
 それに実際に話すかどうかは別にしても、真夕と自分との関係について一回り広い気持ちで受け止め相談相手になってくれそうな人だ、と氷那には思えるのが実花だった。
「そうと決まったらなるべく早い方がいいですね。今週中で空いてる日とかあります?」
「うーん。今週かぁ…」
 やや渋るような返答に、氷那は「忙しかったら無理には誘いませんけど」と言う。だけどもそれに対する実花の返事は「忙しい、っていうわけじゃないんだけどさ」と何か含むような言い方だった。
「ちょっと今週は疲れがたまっててね。この週末じっくり休んで回復するつもりだから、来週あたりでいい?」
「それは全然構わないんですけど。でも、そんなに急な仕事がたまってて?」
 氷那の問いかけに、実花は「先週末にちょっと変なのに絡まれたもんだから」と冗談めかした返事をした。
「ホントね。冗談じゃないよ。『朝まで付き合って』なんて言葉だけかと思ってたのに、まさか本当に付き合わされるなんてさ。何軒も飲み歩いて最後はファミレスで始発を待つなんて、どれくらいぶりかって数えちゃった。歩きすぎで筋肉痛にはなるし、結構ボロボロなんだよ、今」
「それは大変でしたね。あれ? それって彼氏と、ってことですか? もしかして」
 からかうような口調の氷那に、実花は「そんな浮いた話だったら、こんな顔して話をすると思う?」と自分のしわのよった眉間を指し示した。
 そうは言いつつも仕事はしっかりしたもので、一旦会話を切ると実花は領収書のチェックを終えて判子をまとめて押した。清算した小銭を金庫から取り出し、氷那に手渡す。
「で? 誰なんですか? その実花さんを朝まで引きずり回した犯人て」
「さあね。友達だよ」
「友達っていっても、やっぱりそこまでするのってよっぽど仲のいい人でしょ? 社内でそこまで実花さんと仲がいいって……。比呂子さんとか?」
 そこで氷那が比呂子の名前を出したのは、「まさかそんなはずないだろう」と思ってわざとはずすつもりでのことだった。
 ところが一発目でそれを言い当てられた実花は動揺したようで、「相変わらず鋭いね」と呆れたように目を丸くした。
「比呂子さんなんですか? 実花さんが今週末ずっと一緒にいた相手って」
「そうなの。どうしてもってせがまれると断れなくてね。全く、顔に似合わずわがままで甘えん坊だったりするんだから、もう」
 ばれてしまっちゃしょうがない、と開き直った実花は普段どおりの冗談で比呂子のことをそう言って茶化した。
 その会話の途中、氷那はちらりと何気なく視線を上げたとき、それまで口は挟まないまでも愛想のよい笑顔で傍に立っていた香澄が、急に強張らせたような険しい顔をしたのを見てしまった。
 ほんの一瞬のことだったので実花は気づきもしなかったようだったが、氷那にはそれが単なる見間違いにはどうしても思えなかった。