OL小説:「A.O.L.」その11

 氷那が駅に着いたときには、もうだいぶ遅くなっていた。繁華街からは一つ川を挟んだ住宅街であるせいか、帰宅のラッシュが終わったこの時間では町並みはかなり静かで、少し寂しいような印象さえ受ける。
 一度来た時の記憶を探りながら歩き、10分と少々歩いた頃か見覚えのあるマンションの前にたどり着いた。
 なんとなく気合の入らない残業をだらだらとやっていたところ、氷那は個人もちの携帯に着信を受け取った。その会話を終えてから大急ぎで仕事を片付け、早く早くと列車の進行を心の中で急かしながら、やっとここまで着いた。気の利いた手土産を選んでいる余裕もなく、それでも手ぶらは悪いと手近なコンビニで適当にいくらかの飲み物を買って、はやる気持ちを抑えるように部屋のチャイムを鳴らした。やや反応は遅いながらも、入り口についたインターホンに「はい」と応答があって、氷那がにこやかに自分の名前を名乗ると、すぐに玄関の扉は開いた。
「ごめんね。こんな遅くに、急に呼び出したりして」
「いいよ。私が来たくて来たんだし。それに、こういう呼ばれ方、私は嫌いじゃないよ」
 部屋に通されると、なんとなくではあるけれども、その場の雰囲気の重苦しさに氷那は気が付いた。もっとも、詳しい事情は話さずにただ「これから会えないかな」という内容だけの連絡をもらったのだから、ある程度は予想はできていた。それだからこそわざとこの呼び出しに外で会うことは選ばず、自分がその場所へ出向くという提案をしたのだ。
 ほの暗い間接照明の下、古い音楽が抑え目の音量で鳴らされている。氷那が自分の荷物を置くより先にその曲のタイトルを当ててサビの部分を口ずさむと、真夕は少し元気を取取り戻したふうで、嬉しそうに微かに口元をほころばせた。
 あー疲れた疲れた、と軽い口調で言いながら氷那は促されるより先に客用にされているクッションの上に腰を下ろす。
「でも、まさか今日こんなふうに会えるなんて思ってなかったな」
「うん。遅いもんね。ちょっと非常識だったね」
「そうじゃなくてさ。今夜はてっきり、真夕は比呂子さんとどこかに行くんじゃないかと思ってたもんだから」
 比呂子の名前を氷那があえて持ち出すと、真夕は表情を少し固くした。相変わらずわかりやすいな、と思いながら、氷那は座る体勢を楽に、そそくさと真夕がたった今運んできたばかりの冷たい飲み物を一気に飲み干した。
「聞いて欲しい話があるから私を呼んだんでしょ? 下手な前フリとかいらないからさ。何でも話したいころから話しててみたら?」
 氷那の言葉に、真夕は最初「でも」と遠慮をしかけたが、やはり図星だったのか正座をして真夕と対峙すると、神妙な顔つきをして頷いた。氷那は勝手に冷たいお茶のボトルを注ぎなおしながら、真夕がぽつりぽつりと今日ついさっきにこの部屋であった会話について話していくのを聞いていた。
「そういう気持ち、氷那にはわかる?」
 長く一緒にいたい相手だから、付き合いたくないと思ってる、という比呂子の台詞について、真夕は氷那に意見を求めた。氷那はグラスの中身をゆらゆらと揺らしながら少しだけ考えて、それから「わからないね。全然」とはっきり言った。
「氷那もそう思う? そうだよね。私もそう思った」
 真夕のほっとしたような相槌に、氷那は身を乗り出すようにして言葉を勢いづかせる。
「だってそんなこと言ってたらなんにもできなくない? どうせ散らかるんだから部屋なんて掃除しなくてもいい。どうせお腹減るんだからご飯なんて食べなくてもいい。…ってそんなわけないじゃない。それはね、ちょっと世の中を悲観的に見すぎてる意見だと私は思うな」
 強気を装って言った氷那だったが、本当のことを言えば内心では比呂子のそう言った気持ちも全くわからないわけではなかった。あるいは他の誰かが同じ台詞を言ったというのであれば、氷那は言葉どおりその後ろ向きな考えを一笑に付して反論をしたのかもしれなかったが、比呂子という人ということで考えると、意見に完全に納得はできないまでも、それなりに尊重すべき何かは後ろにあるんじゃないかというような気はする。
 だけども今この場では、とりあえず真夕はその比呂子の言葉に対して「賛成」よりも「否定」の意見を聞きたがっていた。だからそれがわかった氷那としては、自分自身の意見はともかく、この場で立つべきスタンスは最初から決まっていた。
「それで? 真夕はそう言われて素直に『じゃあ付き合いません』って同意したわけ?」
 逆の氷那からの質問に、真夕は急にかっと顔を赤くして首を振る。
「違うよ。ん・・・、でも、私は今の氷那みたいにきちんと反論ができたわけじゃなかったから、つい感情的になっちゃって」
 やや言い渋ったが、真夕はそこで耳まで赤くしながら、この場所で比呂子にされたキスやその後に起こりそうだったことについてかなりソフトな説明をした。
 氷那は「へぇ~」と軽い相槌を打ったりはしていたが、当然のこと、内心は声が震えやしないかと思うほど穏やかではなかった。話が次に途切れたとき、氷那はじっと真夕の顔を上目遣いに見つめて言った。
「それって、やっぱり脈があるってことなんじゃない? 本気で付き合いたくない人だったら、何をどう言われたってそんなことはしないでしょ」
「そうかもしれないけど。でも、その後が問題で」
 だって女の人かららしい呼び出しを受けて、あっさりすぎるほどすぐにこの場を立ち去ってしまったのだ。用事の重要さは知らないけれども、その態度は前後の台詞と合わせてどう解釈していいかわからない、と真夕は言う。
「『女の人』ねぇ。それってもしかして、」
 氷那は前に比呂子と二人で開発室で話をしたとき、似たような状況になったことを思い出して言った。その時の様子からして、直感的に「恋人」かそれに近い関係の人からなんじゃないか、と思ったことも頭に浮かんだ。
 もしかして、同じ人からなんじゃないだろうか? と思ったことを言いかけ、直前で氷那は口ごもった。真夕はだけどもその独り言に近い台詞を聞き逃さなかったようで、「もしかして、何?」と氷那に詰め寄ってくる。
「氷那、比呂子さんのこと何か知ってるの?」
「とんでもない! 知りたいって思ってるのは私の方だよ」
 この言い方もまた変な誤解をされるかな、と氷那は心配したが、真夕は特に食って掛かることなく、ただ落ち込んだ感じに頭を下げた。膝を抱えるようにして、「そうなんだよね。何も知らないんだよね」と呟いている。
「考えてみれば、今まで比呂子さんて私が落ち込んだときとか悩んでる時なんかには、すごく優しくしてくれて、話もなんでも聞いてくれてたんだ。でもその逆ってことは、一度もなかった。それって、比呂子さんにとって私は『大事なことは話せない』人だったってことなのかもしれない」
「真夕! 突然何言い出してんの。別に愚痴を言い合うだけが親しい証拠ってことにはならないんだよ」
 何をフォローをしてるんだよ、と氷那は自分で思ったが、それを聞いても真夕は全く立ち直る様子はなかった。思い出していくうちに、それまで自分では何気なく過ごしてきただけのことがいきなり気になり始めたようで、そこに氷那とがいることすらすっかり忘れてしまったかのように暗く頭をもたげている。
 待てども体勢も気持ちも浮かび上がってくる気配のない真夕を前にして、氷那は決心して腰を上げるとそのすぐそばにまで歩み寄り、うつむいて下がった肩口に強く両手をかけた。