OL小説:「A.O.L.」その10

 到着した真夕の部屋で、二人は小さなテーブルを挟んで差し向かい、湯気の出るお茶を前に座っていた。
 今始まったことではないが、真夕はつくづく自分が「恋愛」というものの駆け引きにたけていないな、と実感してしまう。部屋に入って、まず何をどうして間を持たせて良いかがわからず、この暑い季節にも関わらずお湯をわかしてしまった。紳士(淑女?)的な距離で差し向かった数分後、比呂子が先に動いてお茶を手に取った。
「あのね、話っていうのは。一昨日の出張先の夜のことなんだけど…」
「あ、あれね。うんうん」
 進展を望んでいたはずなのに、いざ切り出されてみると緊張しすぎて対処の仕方がわからない。真夕は舞い上る一方の自分の気持ちをどうにか落ち着かせようと、同じように目の前の自分のお茶を取った。
「下手に隠しあってるのも面倒だから、もうぶっちゃけて聞いちゃうね。真夕は今まで女の人と付き合ったりしたことある?」
 飲みかけたお茶にむせそうになった。そこまでストレートすぎる質問が最初に来るとは、全く予想していなかった。「付き合っ『たり』」という言い方が、何を意図した質問なのかはさすがに鈍い真夕でもわかる。
 真夕はまず氷那の顔が頭にぱっと浮かんだが、とりあえずそれは置いておいて、その更に過去にあったちょっとした出来事をいくつか思い出そうとしてみた。
「付き合う、ってほどきちんと付き合ったことはないけど。高校が女子高だったから、その時にほんのちょっと。でも、それだってそんな全然大したことないことだったんだよ」
 男の人が絡むようなことはあえて伏せておくことにした。どのみちそれだってそんなにいい思い出ではないし(というか、忘れてしまって構わない種類のことでもあったし)。
 真夕のそう言った言葉に、比呂子は無表情で頷いた。お互いに黙ると部屋の中はとても静かで、どんどん早くなっていく自分の鼓動の音が外に漏れるんじゃないかと思えて真夕は恥ずかしかった。
 比呂子は長い瞬きをすると、ため息のような呼吸を一つついた。
「正直に言うね。私は、ある。それで良かったって思えることももちろんあったけど、辛いって思うようなこともたくさん経験してきた。だから、本音を言うと真夕とそんな関係になるかもしれないと思うと、私は『怖い』」
「怖い?!」
 真夕は思わずテーブルの上に両手をついて体を乗り出した。比呂子は自分の指を組み合わせて肘をついた体勢を崩さずにいる。こんなときに、と思うが真夕はそのとき初めて、真正面から見た比呂子の大きな二重の瞳は、左右が微かに違う大きさをしていることに気がついた。
「怖い、って何が、どう? よく意味がわかんないよ」
「私も簡単に説明するってことができないから困るんだけどね」
 比呂子は、また一つ息を吐いた。真夕にはそれはこちらにも冷静になって欲しいというサインのようにも思えて、乗り出した体を後ろに引いた。
「『付き合う』ってこと自体よりも、付き合って『依存』することが多分、私には息苦しいんだと思う」
 細部はぼかしてはいたが、そこで比呂子は自分がそれまで同性と付き合ったことで感じてきた、嫉妬や劣等感やライバル心や、猜疑や執着の気持ちがどんなふうに出てきて、その結果自はどんなふうに蝕まれ、追い詰められていったかを話して聞かせた。
 真夕にとって驚きだったのは、比呂子がそこまで明確に人の(女性の?)「陰」の部分を知っていながら、それでも普段の生活にそれらをおくびにも出さずに仕事や生活をしていたという、そのことの方だった。
 だから話の最後に比呂子が「悪いんだけど、私ってあんまりいいヤツじゃないんだ」と言い出しても、真夕にはまるで逆のことを証明しているかのようにも思えたりしていた。
 話を聞くうち段々と冷静さを取り戻していった真夕の気持ちと比例して、目の前のお茶も気づけばすっかりと熱を冷ましてしまっていた。比呂子がそれでもその飲み物を口に含もうと手を伸ばしたところで、真夕は姿勢を正して質問を返した。
「念のために聞いておきたいんだけど。今の話って、遠まわしに私と付き合うのを断ってるってこと…じゃないよね?」
 比呂子は「そんなつもりはないよ」と静かに言ったけれども、そのこと自体を否定するようなことはしなかった。
「本当は真夕とだけは、そういう関係になりたくなかったんだ。そんなふうになってまた、『いつか終わりが来る』って思いながら付き合うのは辛過ぎると思ったから。友達で、仕事上の良きパートナーであれば、例えこの先真夕が誰と付き合ったとしても、それでも私は真夕と一緒にいることができるでしょう? だから、そういう意味で一昨日のこと、私は少し後悔をしてる」
「わかんないよ。そんな理屈、私にはよくわからない」
 真夕は比呂子の言葉が完全に終わらないうちに首を大きく横に振った。出してみるまでわからなかったが、真夕は気持ちが高ぶったせいか声が少し震えていた。まるで今にも泣き出しそうな声音に、比呂子は組んでいた指をとくとテーブルの脇から真夕のすぐ隣にまで動いた。
「どうして『好き』って思うのに、どうせ『終わる』とか『憎みあう』とか、そういうことを先に考えなきゃいけないの? おかしいよ」
「真夕。でも、それは私が個人的に考えていることであって…」
「比呂子さんは、私と付き合いたくないからそう言ってるんじゃない? 私のことなんて『好き』でも何でもないんだ」
 つい感情的になって真夕は言った。その台詞が、それまで仕事を通してとはいえ自分を献身的に支えてくれた優しさを持つ人に対しての本音でないことくらい、言ったそばから自覚していた。
 比呂子が真夕の腕を取ろうとした瞬間、真夕は「やめて!」と振り払う仕草をした。狭いワンルームの部屋ではしかし、後ろに退こうとしてもすぐに置き付けのベッドに背中が当たって跳ね返される。
 比呂子は拒絶されてひどく戸惑った表情を見せたが、真夕がその自分のした動作に反省するような顔をしたのがわかって、改めて手を伸ばし直して真夕の腕に触れた。
「わかってもらえるとは思ってなかったけど」
 うつむいて辛そうに小声で呟く比呂子を目の前にして、真夕はゆっくりと触れられた腕を上げ、比呂子の顔にかかった前髪をかきわけた。じっと見ているとこっちが泣き出してしまいそうで、首にしがみつくように腕を回した。
 しばらく抱きついたままでいる真夕の背中を、さするように比呂子は手を添えさせた。目を閉じると、耳元に真夕が何か自分に対しての文句のようなものを囁いているのが比呂子には聞こえた。
 真夕は手をふりほどくと、比呂子と額が触れるほどの距離で止まった。一瞬だけおいて自分からゆっくりと顔を近づけると、比呂子が背中に置いた腕を引き寄せるようにし、場所を探るようなぎこちないキスをした。
 お互いに目を閉じているせいかなかなかちょうど良いところに触れ合わず、何度かついたり離れたりをしているうちに、ようやく横向きに頬が重なった。
 静かな部屋にはその長いキスの間に漏れる小さな息や声が妙に大きく響くようで、次第に比呂子が慣れた仕草で顎や舌を使うようにし始めると、真夕は頭の奥からぼんやりと幕がかかっていく感触に包まれだした。
「比呂子さん…」
 名前を呼ぶ声が自分でも驚くほど艶を帯びていたことも真夕には新しい発見だった。比呂子は長いキスを終えると、自分の頬を相手の横顔につけるように上下させつつ、指先で首から肩にかけてのラインをなぞらせた。恥ずかしさに自分から何かするということも忘れていると、比呂子は滑らせるように指先を肩口から胸の前を服越しにするりと下ろし、丈の短い薄手のブラウスの中に背中側から手を入れた。
「ま、待って。ちょっと」
 真夕は軽く抵抗をしかけたが、比呂子はそれで動きを止めるようなことは全くなく、脱がせない服の下でわき腹から背骨にかけてを丹念に撫でてから、焦らすような手つきで下着のホックを外した。そしてもう一度キスをしながら、正面のブラウスのボタンを一つずつ取り外していこうとする。
 残り後一つ、というところだった。
 静かな部屋に不似合いなまでに大きく、カバンの中に入れてあった携帯電話が着信のメロディーを鳴らしだした。
 二人は同時に動きを止め、ばつが悪そうに顔を見合わせた。その間にも電話は鳴りつづけ、出るまでは絶対に切れないとでもいうような意志すら感じるほど長く継続させていた。
「比呂子さんの、だよね?」
「うん」
「出ないの? 急な用事なんじゃない?」
 真夕に促されて、比呂子は体を放した。真夕に背中を向ける形で部屋の反対の隅に置いてあった自分の手に持つのところへと移動をし、取り出してすぐ二つ折りを素早く開いた。
「もしもし? あぁ・・・」
 ちらり、と比呂子が真夕を振り向いた。真夕はその視線に自分が今どんな格好でいるかを気づかせられ、慌てて後ろを向いて乱れた着衣を整えだした。
「どうしたの? こんなに遅い時間に…えっ、どういうこと? それって」
 真夕はなるべく聞かないフリをしていたつもりだったが、相手が女性であるらしいことはわかった。何度か、比呂子の方から切りたいような言葉を入れようとしたのはわかったが電話は思いのほか長く、数分してやっと切ることができた比呂子は疲れたように顔を横に振っていた。
「真夕。悪いんだけど」
「うん。どうしたの?」
 誰から? と聞きたかったが、なんとなく思いつめたような比呂子の顔に、どうしても聞くことができなかった。比呂子は苦々しそうな表情をして、自分の手に持つを引き寄せると、手帳から電車の時刻表を引っ張り出した。
「本当にごめんね。これから行かなきゃいけない用事ができちゃって」
「そうなんだ。わかった」
 名残惜しそうにしながらも、比呂子は腰を上げた。玄関まで送るために一緒に立ち上がった真夕を何度も振り向きながら、本当にごめん、と繰り返す。
「また連絡するね」
「気にしなくてもいいよ。気をつけて」
 本当はもちろん行って欲しくなんてなかった。どんな事情かは知らないけれども、自分を優先させてくれたっていいじゃないか、と喉元まで言葉が出かけた。
 だけども比呂子は事情も話さないまま、真夕の見送る玄関から出て行ってしまった。
 部屋に一人残されて、真夕は玄関先から動けずにその場にへなへなと座り込んだ。どれくらいそうしていたか、自分でもよくわからないほどそこにいて、比呂子が行ってしまった玄関と、さっきまで一緒にいた部屋の中とを順に見た。
 とてもじゃないけれども、このまま一人でこの部屋に居続けることなんて、できそうもなかった。