OL小説:「A.O.L.」その9

 はい、これ。と、待ち合わせをした社員食堂で真夕が菓子折りの箱を手渡してきたとき、妙に晴れ晴れとした顔つきをしているのが氷那には気になった。
 もらったお土産にかこつけて「暇なんてあったの? 忙しかったんじゃないの?」とそれとなく探りを入れてみると、真夕は妙に機嫌良く「そうなの。だからそれを買ったのも慌てて帰りの列車を待つ間の駅ビルでさ」と返事をする。さっそく、と包装を解いた氷那が食後のデザートにそれを食べようとすると、真夕はニコニコと頬杖をついてその様子を見つめた。
「何かあったんでしょ」
「どうしてわかるの?!」
 からかってんじゃないか、と氷那が思ってしまうほど、真夕は大げさに驚いた。次いで氷那が「どうせ比呂子さんのことなんでしょ?」と聞かなくてもわかりきっていることを聞くと、真夕は「そうなの」とちっとも隠そうとしない態度で顔を赤くした。
 そこで向かい合って座っていた席から真夕は立ち上がると、ピークを過ぎて空いている食堂の席を回り、氷那の真横に移動した。実はね、と肩を押し付けるように体を寄せると、「あー、でもやっぱりどうしようかな」と聞く側にとっては勿体つけに思えるような言いかけを何度か挟みながらも、結局はその出張の夜にあったことを話して聞かせた。
「それで……どうしたの? それからは?」
 キスをした、というところで真夕の話が止まってしまったので、氷那は内心では恐ごわながらも続きを促した。すると真夕はうつむき照れた様子で「それが、その日はそこまでで」と語尾をしぼませる。どうやらあまりにも疲れすぎていたこともあって、その日はそれ以上何があるわけでもなくすぐに眠ってしまったらしい。
 なあんだ、と氷那は呟いて、もらったお菓子を一口に放り込んだ。
「そうしたらさ、真夕はこれからは比呂子さんと『付き合う』ってこと?」
「はっきりと約束とかしたわけじゃないけど。でも、これでちょっと壁を越えたって感じだし。多分、もうちょっとしたら少しずつ…かな」
 この悪気のなさが真夕の真夕たるゆえんなんだろうな、と氷那は思う。一応私も真夕のこと「好き」って言ったはずなんだけどな、と氷那は言ってやりたくなったが、あまりにも舞い上がったような目の前の態度に毒気を抜かれてしまったようでもあり、今日のところはどうでもいいか、という気分になった。
「じゃ、どうもごちそうさま」
「あっ。もう戻っちゃうの?」
 先に席を立った氷那と一緒に、真夕も自分の食器を返却口に持っていった。席に戻ると残ったお菓子をもう一度箱に入れなおし、残りは企画課の人にも配らせてもらうね、と氷那は笑顔で手荷物をまとめ、バッグを肩にかけた。
 食堂の出口まで一緒に出て、廊下を左右に別れるところで、手を振りかけた氷那に真夕は後ろから声をかけた。
「あの。ごめんね、氷那。でも私、こういう話聞いてくれそうだったのは氷那しかいなくって。つい」
 氷那は一つ大きな息をつくと、行きかけた足を数歩戻して真夕の肩口あたりを指で弾いた。
「謝るくらいなら最初からそんな話しないの」
「うん。そうだね、ごめん」
「何かあったらいつでも遠慮なく呼び出してくれていいから。じゃ、またね」
 氷那がそう言うと、真夕は照れたように笑うと、頷いて自分の課へ歩き出した。それを見送ってから、氷那はエレベーターに向かい、待っている間反射鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。
 耐える女、ってキャラじゃなかったはずなんだけどな、自分。と、ふてくされそうになる表情を自ら一つ張って、よし! 頑張るぞ、と小さく空手の気合入れのように拳をぐっと体の脇で構えるポーズをとった。

          *

 出張費の清算に経理課を訪れた比呂子も、同じようにニコニコと機嫌を良さそうにしていた。領収書の束を受け取った杉山実花(すぎやま・みか)はその様子に素早く気づき、「そんなに出張って楽しいものなの?」と皮肉のような冗談を言った。実花は比呂子と年齢が近いこともあり、社内でも信頼できる相談相手の一人だった。
「今回は特に、かな。花火も近くで見れたし、名物の駅弁も食べることができたし」
 話を合わせるように比呂子が呑気にそう応えたのを聞いて、実花は「全く」と呆れたようにため息をついた。
「二人旅は『面倒臭い』とか思ってるんじゃなかったの?」
「いつそんなこと言ったっけ。楽しいもんだったよ」
 ま、一緒なのが「あの子」だからか。と、実花が独り言つと、聞こえなかったフリをするように比呂子は「旅は道連れ」と鼻歌を歌った。
 手続きを済ませて比呂子が部屋を出かけると、実花は「あ、待って」と声をかけた。振り向く比呂子を、席を立った実花は手を引いて廊下に出した。ちょっと周囲を窺うようにしてから、耳元に顔を近づける。
「例の支社、いよいよ来月からたたみにかかることになったって」
「そうなんだ、やっぱり」
 比呂子はそれを聞いた瞬間、それまでの機嫌顔を真面目なものに変えた。実花は、比呂子がかつて新人研修の指導員として借り出された際に、同じく一緒にそれを担当していた。
 はっきりとそこで何があったかを話したことはなかったが、うすうす比呂子がそこで「何」をしていたかは今まで勘付きつつ知らないフリをしてきた。
「それで、さっきその支社から転属になるって一人うちの課に挨拶に来たよ。若い女の子。佐倉って名前だった」
「経理に…。へぇ」
 比呂子は実花と目を合わせないままそう言った。それきりどんな感想をつけることもなく、「教えてくれてありがとう」とだけ言うと、比呂子は廊下を歩き出した。いかにも何か思うところはありそうだったが、実花は特に何か聞こうとはしなかった。
 比呂子の姿が廊下を折れるあたりまでしばらくそこに立っていると、不意に背後から「実花さん?」と名前を呼ばれた。
「どうしたんですか? こんなところに立ったままで」
 振り向くと、そこには同じように領収書を持ってきた氷那がいた。実花は慌てて「ちょっとね」とごまかすように言って経理の部屋へと戻った。
「さっき、比呂子さんと話してましたよね」
「ああ。見てたんだ」
 席に戻って仕事をしながら、実花は氷那の言葉に「やっぱりね」と思う。氷那がここで仕事をするようになってから経理に限らず仕事の面で色々と面倒を見てきたが、天性のものなのかそういう情報を嗅ぎ付ける妙な勘の鋭さがあることを、実花は前々から気づいていた。
「珍しいことでもあったんですか? 何か怪しい感じでしたよ」
「そうなの。ちょっと今夜の予定をね」
 さらりとかわして実花は氷那に冗談を言った。氷那は「わっ、やっぱりそうだったんだ」と合わせて笑う。
「比呂子さんて、普段は『大人』でお姉さんぽい感じなのに、実花さんと話してる時だけは違いますからね」
「私の方が更に『大人』って言いたいの? 人を老けてるみたいに言わないでよ」
「そういう意味じゃないですよ。それだけ実花さんが比呂子さんには信頼されてるんだなぁってことです」
 どうかな、と実花は肩をすくめた。チェックをして判を押している手元をしばらく氷那は無言で見つめていて、それから出し抜けに話題を変えて話を始めた。
「そういえば、今度経理課に一人、支社から転属してくる女の子がいるんですってね」
 ギク、と実花は思わず動かしていた手を止めた。まさか、と思って振り仰ぐと、そばに立っていた氷那は「あれ? 違いましたか?」と平然として聞き返した。
「そう、そうなの。よく知ってるね」
「私もついさっきに聞いたんです。かわいい子なんでしょ? もう会いました?」
 実花は手続きを終わらせると「うん、少し前に来てね」と返事をした。それを聞く氷那は相変わらず愛想の良さそうな笑顔をしていたが、実花は余計なことを少しでも話そうものならきっとこの子はそこから鋭く裏側の「何か」を察知をするんだろうな、という緊張感を感じていた。

          *

 戻る直前に気合を入れなおして、真夕はなるべくいつもと同じように仕事をこなした。比呂子はというと、感心してしまうほどにいつもどおりの態度で、今日が終われば週末の休みになるということすらまるで意識していないんじゃないかというように真夕には思えた。
 出張帰りということもあって残業は免除してもらい、二人はほぼ定時に開発室を後にした。並んで更衣室に入ると、他の課の人も入り乱れる中、隣り合ったロッカーの扉を開けた。
「比呂子さん。この週末はどこか行く予定ってある?」
 真夕からそう切り出すと、比呂子はやや驚いたふうに目を大きくしてそちらを向いた。
「特にこれって決めてることはないけど」
「じゃあ、一緒にどこかに行かない? どこでもいいから」
 はしゃぐような笑顔でそう言う真夕に、比呂子は「どうしようかな」と微笑んだ。
「どこか、って。例えばどこ?」
「うーん、例えば映画とか。今いいのがやってなければ食事だけでもいいし」
 真夕としては、本当に別にそれはどこでも良かった。ただ、やっとつながったかもしれない比呂子との関係の細い糸を、切れないようにしておきたかった。
 比呂子は少し考えるようにしながら白衣をしまい、着直したブラウスのボタンを留めながら時計をちらりと見た。
「明日の方がいい?」
「えっ? ううん。別に明後日でも、いつでも」
「そうじゃなくて、どうせなら今日これから出かけない?」
 疲れてるならいいけど、と比呂子は言いかけたが、真夕はその言葉も途中に「行く!」と飛びつくような返事をした。(言ってから、また安直な態度を取ってしまったことをほんの少しだけ後悔した)。
「これからって、どこ? とりあえず食事だよね」
「うん。まずはそうしようか。お腹減ってるし」
 なんとなく引っかかる言い方の気がしたが、真夕はその時には特に追求しようとはしなかった。それから二人は決めたとおりに会社を出て、行きつけにもなっていたお気に入りのレストランで夕食をとった。
 食事が終わるころになって、真夕がこれからのことをどう相談しようかと思っていると、先に比呂子の方が「もう少し時間あるかな?」と切り出してきた。
「どこかに行くの? 飲みにとか?」
 それもいいけど、と比呂子は言って真夕の顔を少し真面目な顔で見つめた。
「なるべく静かなところの方がいいな。話しておきたいことがあるから」
 真夕は食器を置くと、すこしうつむいてテーブルの上の一点を見た。少し考えて、そして決心したように顔を上げて比呂子と目を合わせる。
「じゃあ、私の部屋にする? きちんと片付いてないんで悪いんだけど」
 いいの? と比呂子が聞くので真夕は頷いた。二人はそれを決めると早々に席を立ち、一緒に駅へと向かって歩き出した。