OL小説:「A.O.L.」その8

 数日して仕事が早めに終わった夕方に、氷那は真夕にメールを入れてみた。すると、今は出張で某地方にいる、という返事があった。そういえば、今度新しく製造拠点とするために大規模な工場を作る計画があったな、と氷那は思い出した。
 企画課という製造に直接関わりを持たない販売部の氷那にとっては、別にそれができたからといって仕事に影響があるわけではないのであまり気にしていなかったが、技術職である開発課は設備計画にそれなりに時間を割かされていたらしい。
 普段であれば出張なんて滅多に行かない(本人が希望をしない)真夕まで借り出されるのだから、いよいよ状況は切羽詰ってきているのだろう。氷那は今日会えないことを残念に思いつつ、「ご苦労様」とねぎらいの言葉を入力し、続けて「いつまでそっちにいるの?」とつけて送信をした。
 返事が戻ってくるまでの数分の間に、氷那は不意に嫌な予感がよぎった。まさか、と思ったが残念ながらその予感はぴたりと当たっていた。
「昨日こっちに来て、あと一泊してから様子をみて戻ることになってる」
「一人で?! 二課の人大勢でそっちに行ってるの?」
 真夕からの返事に重ねて質問をした氷那へ、少し間があって次のメールが入った。
「ううん。私と比呂子さんの二人」
 多分、この文面の前か後ろに「ごめんね」というふうな言葉をつけようかと迷ったせいで、返事が遅れたんだろうな、と氷那は思った。
 さらに返事をしようかどうか、氷那が迷いつつしばらく時間をおいていると、続けて真夕からもう一件送られてくる。
「でも、とっても忙しすぎてそれどころじゃないよ!」
 これは、自分に気を遣って書いた文面なのか、それとも実際に本当に忙しくて、それを話したかっただけなのか、その判断は微妙なところだな、と氷那は思った。

          *

 昨日の早朝の新幹線に乗って、現地に到着をしたのが昼過ぎ。それからすぐに現場に入ってざっと視察したあと説明を受けて、それからはひたすらプログラムの調整と技術的な問題点の洗い出し作業。事前に「一人じゃとっても無理だから」と説明をされて出向いた場所ではあったが、まさか本当に食事に出かける暇もないほど働きづめになるとは思っていなかった。
 出かける前(と、言っても出張が決まったのもごく直前のことだったが)には、比呂子と二人きりで遠出をするという初めてのことにやや緊張を感じたりもしていた真夕だったが、同じ部屋に泊まった昨日の晩など疲れ切って倒れるように布団に入り、目覚まし時計がなければ起きられないほど深く眠っていたりした。
 今日も朝早くから昨日の続きで、地方の名産品どころか近所のコンビニ弁当も満足に食べていられないような状況で、この分だとみっちり夕方まで働いてまた夜は倒れ込むように寝て出張は終わりになるんだろうな、と真夕はほっとしたようでもあり残念でもある、ような気持ちを感じていた。
 氷那からメールが来たのは、さすがに疲れて集中力が切れかけた夕方の休憩時間のことで、少しだけ迷ったけれども比呂子と一緒であるということは素直にばらしておくことにした。下手に隠す方がよけいに良くないと思ったからだ。
 自動販売機でコーヒーを買ってきた比呂子が、真夕の隣に並んで紙コップを手渡した。少し出てみない、と誘われてベランダの窓を開くと、ちょうど夕暮れの時間帯であり、山々の連なった間にゆっくりとオレンジ色が沈み込んでいく様子を見ることができた。
「会社から何か連絡でもあった?」
 真夕が携帯を握ったままでいることに気づいた比呂子が尋ねた。ここでもどうしようかと思ったが、やっぱりここで隠すのも、と思って真夕は素直に氷那からだ、と伝えた。比呂子はそれを聞いても別に意外そうな顔をするでもなく、ただ正面の山の間に沈む夕陽をまっすぐに見詰めたままだった。
「きれいだね。あっちじゃ絶対に見れない景色だもんね」
 頷いて真夕も比呂子の真横で手すりに肘をかけた。自分が工場にこもっていた一日、気が付かなかっただけできっとすごく暑く照っていたんだろうな、と思った。夕方になった山風は涼しくて、真夕は流された自分の髪を整えながら比呂子の横顔を盗み見た。
「よくあるの?」
「えっ? 何? 夕陽?」
「違うよ。あの子、深海さんからのメール」
 真夕は全然気にしていないようだった比呂子からの突然の質問に、思わず妙な返事をしてしまった。比呂子はそのとぼけ方に笑って冗談めかすようにしながらも、真夕からの返事を待っているようだった。
「最近、かな。でも、そんな毎日とかじゃなくって、氷那の方で気が向いたときっていうか。仕事の手が空いたときにちょっと、って感じで。今日は、たまたま…」
 ふうん、と比呂子は言って頬杖をついた。微笑むようにしている表情からでは、逆にどういう気持ちなのか真夕にはわかりにくい。真夕は出したままにしてあった携帯電話をポケットにしまった。
「この前、私もちょっと話してみたんだけど。いい子だよね。仕事できるのに、驕ったところがないっていうか。素直な感じ。真夕とちょっと似てるかなって思った」
「似てる? 私に? それは嘘だよ。似てるっていうならどっちかというと私よりも比呂子さんの方だと思う」
 どこでそう思ったんだっけ、と真夕はとっさに口にした自分の言葉に少し首をかしげた。比呂子はそこで初めて真夕の方に向いて、不思議そうな顔をした。
 そしてちょっと間を置いてから、「似てないよ。私にはきっと」となぜか独り言をつぶやくようにうつむいて言った。
 傾いた夕陽が山の間に沈み込むんでしまうと、急にあたりは暗さを増してくる。比呂子は持っていたコーヒーを全部飲み干して、「さてと」と体を伸ばす仕草をした。
「もうひと頑張りしよっか。ここまでいいペースで進んできたから、9時前には終わるはずだよね」
「だといいけどね」
 慌てて後を追うように真夕も飲み物を片付け、ベランダから室内に入る比呂子を追った。新築らしいコンクリートの匂いの残る廊下を早足に、先行する比呂子の隣へ追いついて並んだ。
「気合入れて終わらせてしまおう。絶対に」
 普段であればどんなに忙しいときでも気持ちに余裕のありそうな笑顔をしている比呂子だったが、そう言ったときの顔は珍しくとても真剣だった。真夕は黙って頷き、再び研究室に入る直前、自分の襟元を整え直した。

          *

 本当に本気で取り組んだおかげか、作業は比呂子の予告したよりも若干早く、8時を回ったくらいには一段落をつけることができた。現地の人たちも終わった瞬間ほっとした様子で、めいめいに自分で肩を叩いたり椅子に座ったまま思い切り伸びをしたりしながら一気にリラックスした声を上げあった。
 中でも新しくこの工場の研究室長になるという人が比呂子のことをいたく気に入ったらしく、どこまで本気か「もしよければこれからもここに残ってもらえないかな」なんてことを言ったりしていた。真夕はそれを言っていたとき少し離れた席にいたが、それに比呂子がどう応えるか、かなり緊張しながら耳をそばだてた。
 それから、これから一緒に食事でもどうかと二人は声をかけられたが、比呂子は「明日も早いことだし、疲れているので今日は休みます」と丁寧に断った。真夕は比呂子のその返事を聞いて、それに便乗する形で同じように断った。
 二人は「ぜひまた次の機会に」と頭を下げ、呼んだタクシーに乗って工場敷地内を出た。乗り込んですぐ、比呂子は運転手さんに急いでくれるようなことを告げた。真夕がその理由を尋ねると、比呂子は笑って「すぐにわかるよ」とだけ言って楽しそうに笑った。そんなふうにして、二人は9時ちょうどくらいに旅館に着いた。
「ギリギリで間に合ったかな」
 と、比呂子が旅館に入ってすぐそう言ったかと思うと、真夕が質問を返す前にドン! と大きな音が響いた。その音を聞いて、比呂子は「急いで」と真夕の手を取り、疲れているのも忘れたふうに自分たちの部屋へと駆け込んだ。
「ちょうど今日が祭りだって聞いてたから。うまくいけば見れるかなって思ったんだ。頑張ったかいがあったよ」
 比呂子がそう言うそばから、次々に大窓の正面には色とりどりの花火が上がっていく。二人は荷物を投げ出すように置いてすぐ、夢中になって大窓のそばに並んで腰掛けた。
「偶然にしてはいい場所だったね。ここ」
「うん。すごくきれい」
 しばらく、二人は床に並んで座り込んだまま、上がっては散っていく花火を見つめていた。花が咲いてから一瞬遅れてドン、と響き、散ってからパラパラパラ、と爆ぜる音が届いてくる。特に全国的に名物となるような有名な花火大会というわけではなかったが、それでもよく澄んだ夜空に咲いていく花火はとてもきれいなものだった。
 最後のスターマインで連続した火花が全て散り、夜空に余韻のような薄明かりと煙が立ち込めるだけになってからも、二人はそのまましばらく動かなかった。
 とてもその日の労働が疲れていたからかもしれなかった。頭と集中力を使いすぎたせいで、切れてしまった緊張の糸が、なかなか結びなおせなかった。真夕は半ば夢見ごこちのようなぼんやりした気持ちのまま、何もない夜空を見ながら自然に言葉を呟いた。
「比呂子さん、あの室長さんの誘い、受けるんですか?」
「ああ、あの『来てくれ』っていうの? 社交辞令だよ」
 その場で比呂子がどう応えたか、真夕にはよく聞き取れなかった。だけどもそれを言っていたとき比呂子の顔が笑っていたので、もしかしたら、と少し不安になった。
 比呂子の応えを聞いてからも、納得できないように真夕は自分の膝を抱える。
「私、今までそんなこと考えたことなかったんだけど、最近少し思って。もし、比呂子さんが今までみたいじゃなくて、急に私と会えないところに行ったりしたら、どうなるんだろう」
 半分以上は独り言だった。だけども、祭りが終わってしん、と静まり返った部屋の中では、必要以上にそれははっきりと響いた。
 「行かないよ」と比呂子は言ったが、真夕は首を横に振って「だって比呂子さん、いなくなるとしたら本当に突然な気がするから」と言った。
 それからどれくらいか時間が過ぎた。真夕は膝を抱えたまま、そこに自分の頭を乗せる姿勢でいた。痛くなるほど静かだった室内に、ふと畳の上をすり動く音と気配がした。
「あのね。真夕」
「何? 比呂子さん」
 二歩ほど離れた位置にいた比呂子が、真夕の真横に来てそう言った。真夕が顔を上げると、その頬に片方の手が添えられた。
 なぞるように顔のラインを動く比呂子の手は、ついさっきまで触れていた薬品の残り香がした。真夕がその匂いについ顔を微笑ませると、比呂子が数度ためらう仕草をしながらゆっくりと顔を近づけてきた。
 真夕は目を閉じてすぐ、唇に柔らかいものが触れたことを感じた。