OL小説:「A.O.L.」その7

 じっとりとした蒸し暑さに目を醒ますまでの短い眠りの間に、比呂子は昔の出来事を夢に見ていた。汗と湿気を含んだシーツが裸の身体にはまとわり絡んでくるようで、比呂子は身動きの取れなさから逃げ出すかのように、飛び上がるほど勢いよく、目覚めると同時に上半身を起こした。
 早く鳴っている自分の鼓動が落ち着いてくれるのを、比呂子はしばらくその場でじっとして待った。暗闇に目が慣れてきた頃、横目に備え付けの時計を見ると、まだ真夜中を少々過ぎたくらいの時間をさしていた。
 二つ並んだベッドの他には家具らしい家具もない無機質な部屋は、ほんの数時間前にチェックインしたシティホテルの一室である。急に降り出した大雨を避けて入った建物で、フロント係に聞いてみると、偶然ダブルの部屋が一つキャンセル空きが出たところだなのだと言われた。
 比呂子は裸足のまま絨毯敷きの床に足を下ろした。備え付けの薄いローブを羽織ると窓際に向かい、カーテンを開いて窓の外に広がる景色を見てみた。7階の部屋からはまだ消えそうもない街の光が足元にあり、少し離れた駅では交差する路線が複雑に絡み合いながらそれぞれの行き先へとレールを伸ばす様子が見えた。雨はもう上がっていた。
 比呂子は部屋の中へと引き返し、空調のリモコンのスイッチを押した。静かな部屋の中に、低くモーターの回る音が聞こえ出す。二つ並んだベッドのうち、手付かずになっている奥の方を選ぶと、比呂子は腰を下ろしてため息をついた。
 向かい側のベッドでは、比呂子の様子に全く気づいていないのだろう、香澄が微かな寝息を立てて眠ったままでいる。肩を半分覆うところまでかけられた薄いシーツの下の体は、昔知っていたときよりも更に華奢になったような印象があった。もともとが小柄な体型であったこともあり、なんとなく痛々しくも感じられてしまうくらいだ。
 傍にいてやることを選ばなかった自分にどうこう言う資格はないのかもしれないけれども、それなりにあちらの会社で苦労があったんだろうな、と同情心も感じた。
 比呂子はベッドに腰掛けたまま、両手で自分の顔を覆って背中を丸めた。本当にこれでよかったんだろうか、と、どうにもならない終わってしまったことを思い返して考える。
 香澄は比呂子に寝て欲しいと頼んだあと、「私は比呂子さんに、もう一度あの時みたいに付き合って欲しいってお願いしているんじゃないんです」と言った。「あの時うまくいかなかったことを、もう一度繰り返してうまくいけるようにする自信は私にはないですから」と、冗談を言ったかのように笑っていた。
「今日どうしても比呂子さんに会いたかったのは、本当にただ『会いたい』って思ったからだけなんです。比呂子さんはまだきっと私のことを『重荷』に感じているだろうって思いましたけど、それでももう一度会って欲しかったんです」
 ごめんなさい、と香澄は頭を下げて謝った。
 重荷、というのは少なくとも「過去」では本当だった。職場が離れ、お互い新しい仕事に追われることですれ違いを繰り返していた時期に、会おうとする努力を惜しむ比呂子に当てつけるように、香澄は同僚の男性と付き合ったりしたことがあった。わざと目立つような振る舞いをして、大げさに噂が比呂子の耳にまで届くようにもした。交わす時間と言葉の少なさに苛立って、つい比呂子に手を上げてしまったこともあった。
 だけども比呂子としては、別れ話を持ち出したときに思い切り泣かれた時、香澄個人を憎んだりするような気持ちは消えていた。もう会わないようにしよう、と言ったのは決して嫌いで顔を見たくなくなったのではなくて、ただただもうこの先は、自分のことをそっとしておいてほしい、と思ってのことだった。
 部屋に入ってすぐ、香澄は待ちきれないように比呂子の首に抱きついてキスをしてきた。その仕草に強烈に自分が求められていることを感じて、比呂子は流されていくことに抵抗するのをやめた。
 香澄との思い出で、良かったこと悪かったことを出来る限りに思い出し終えてから、比呂子は座っていた体をベッドに横たえた。空調が効いてきたたのか、部屋の湿気は先ほどに比べていくらか軽くなったようにも思えた。
 薄暗い天井を眺めながらうとうとと瞼を重くし始めた時、不意に比呂子は、そういえば真夕は今ごろどこで何をしてるんだろうな、とぼんやりとした頭で考えた。

          *

 連絡しようかな、どうしようかな、と何度も思いながらも、真夕は結局比呂子に自分からメールをすることができなかった。一方的な思い込み、と言われてしまえばそれまでだけれども、真夕から見て比呂子には、気持ちが「開いている時」と「閉じてる時」があると思った。実際に会って顔を見たときにわかる機嫌や何かとは少し違う。こうして離れている時でも”何となく”わかる、目には見えない気持ちの伝達のようなものだ。
 いつもであれば、何を遠慮することもなく下らないことや仕様もないことを送ったり話したりできるはずなのに、ふとある瞬間にはなぜか理由なく「してはいけない」ような気がして、ボタンを押す手が止まってしまうのだ。
 氷那を部屋に入れていくらか会話が進んだところで、真夕は「今ってまさにそんな感じなんだよね」と言い出した。
 そんなふうなこと、誰かに思ったりすることない? と真夕が尋ねると、氷那は「普通はないだろうね」と呆れたような顔をして答えた。
「しかし聞けば聞くほど不思議な関係だよね。真夕と比呂子さんて」
 遅くならないうちに帰るよ、と言った氷那を、それじゃお茶でも、と引き止めたのは真夕の方だった。最初こそ仕事や音楽なんかの趣味の話をしていたのだけれども、真夕が今この場で本当に話したがっている話題はそういうことではないな、と氷那が感づくのにそれほど時間はかからなかった。
 他の話題をするときと、こんなふうに比呂子の話題を持ち出す時とで、真夕の態度が明らかに違うのが、氷那にはあまりおもしろくなかった。
「不思議、っていうか。うん。自分でもね、よくわからないんだ。ただの『先輩』って感じとは違うと思うし、『親友』っていうのとも少し違う気がするから。どっちかっていうと…『保護者』に近いのかのなぁ」
 私もいい大人なんだけどね、と照れたふうに真夕は言った。氷那はふうん、とつぶやいて頬杖をつく。
「思ったんだけど、真夕が比呂子さんと2人でいるときって、どういう話してんの? 恋愛の相談とか、そういうのとかもすることあるの?」
「恋愛?! ないよ。それは、一度もしたことない」
 なんで? と氷那が重ねて尋ねると、真夕はしばらく本気で考え込むように眉をしかめた。そういえば、それ以外の会話だったら大体なんでもするんだけど、と独り言のように思索の途中でつぶやく。
「比呂子さんが、あんまりそういうのをしたがってなさそう、だからかな」
「そうなの? じゃあ比呂子さんが今誰と付き合ってるとか、そういうのも真夕は知らないってこと?」
 何気なく氷那が言った言葉だったが、それを聞いて真夕は大きなショックを受けたように体を固まらせた。その間があまりにも長かったので、つい氷那は「真夕?」と目の前で手を振って意識を確かめてしまった。
「そっか。でも、いないんじゃないかな。休日とか、よく一緒に会ったりしてるし。普段でもメールとか、それらしい相手としてるのを見たことないもの」
「どうかなー。意外と何かあったりして」
 からかい半分に氷那が煽ると、また真夕はうつむいて考え込み出した。多分これまで自分が見てきた場面なんかで、思い当たることがありそうかどうかを必死に探しているんだろうな、と氷那は思った。
 比呂子の話を持ち出されてからずっと、氷那は昼間あったことを真夕に言おうか言うまいか考えていた。伝えたい、というよりは話を持ち出すことで、真夕の知っていることを聞き出したい、と思う気持ちがあった。
 だから真夕がここまで比呂子の私生活について何も知らないというのは、少し残念なような気もした。「恋愛感情」以外の部分のほとんど全てでつながっているような2人が、「恋愛感情」についてだけ徹底して避けている不自然さは、果たしてただの偶然なんだろうか? と氷那はいぶかしんだ。
「もし、もしもだよ」
 真夕がまだ考えをまとめきっていないうちに、氷那は注意を自分の方に向けさせた。きょとんと悪気の全くない瞳を自分に向ける真夕に見つめられると、氷那はわけもなく罪悪感のようなものを感じてしまいそうになる。
「もし、比呂子さんに誰か真夕の知らない恋人とかいたら。どうする?」
「どうって、それは…」
 それは、と小さく一度繰り返したきり、真夕は黙りこくってしまった。氷那もそれに付き合ってしばらくずっと黙っていた。時計の針の音が何周かするのを数えて、冷静に話ができるらしいことを自分に確認させて、それから氷那は口を開いた。
「じゃあ、その逆は?」
「えっ?」
「真夕は、比呂子さんの知らないところで誰かと、恋愛をしてみたいって思ったりしない?」
 氷那のその台詞に、真夕は反射的に体を後ろに退けそうになった。やっぱりまだ警戒されてたのか、と氷那は思ったが、だからといって自分まで後ろに下がるようなつもりはなかった。
「安心してよ。この前のは、私も反省してるから。真夕が嫌がってるうちは、私も無理やりおかしなことはしない」
「そんな…うん」
 それを聞いて、素直に安心したように真夕が少しだけ体勢を前に戻す。氷那が真っ直ぐに投げかける視線と顔を上げた瞬間に目が合い、真夕はどうしていいのかわからないふうに恥ずかしそうにうつむいた。
 氷那は小さく息をつき、それから丁寧に言葉を区切って言った。
「私は、真夕のこと『好き』だよ」
「氷那! ちょっ…」
「あんまり深読みしないで聞いといて。ただそう思ったから言っただけ」
 真夕はそれでも混乱を隠せないふうで、何をどう答えていいかわからなそうにしきりに何かを言いかけてはやめたりをしばらく繰り返した。
 氷那はそのとき、自分でも意外なくらいに落ち着いているのが不思議だった。奇妙に冷静で、ふと、もし真夕が誰か、比呂子でない誰かを好きだとここで言い出したら、それならあっさりとこの気持ちは諦められるのかもしれないな、と考えた。
 別に返事が欲しいわけじゃないから、と言い残し、氷那は席を立って玄関へと向かう。ここで置き去りにする卑怯さもわかってはいたけれども、今日のところはここまでにしておこうと氷那は思った。
 玄関を出る瞬間に、振り向いてもう一度、しっかり大声で「好き」だと言いたい気持ちにもかられたけれども、それはぐっとこらえておいた。