OL小説:「A.O.L.」その6

 研究室で二人で話をしていた途中でかかってきた電話に、比呂子は明らかに動揺していた。動揺、というのもちょうど良い言葉というわけでもなく、困惑、とかそういう気持ちも混じっている様子だった。
 数度コールが鳴ってもなかなか比呂子は携帯を手に取ろうとはせず、氷那の方から「出ないんですか?」と声をかけたくらいだ。
 純粋な仕事の関係での連絡や、親しい友達か家族のような人からの呼び出しではないことは、脇で見ていた氷那にはすぐにわかった。建物の中で隔離状態にされている研究室は、二人きりという状況だからというわけでもなく、元からとても静かな空間だった。
「困るよ。勤務時間中なのに…うん、連絡しなかったのはこっちが悪かったけど。え? そんな急に?」
 比呂子はちらりと氷那の顔を窺ってから、席を立って部屋の隅の方へと移動をした。薄っすらと漏れ聞こえる相手の声はどうやら女の人らしく、比呂子の口調から察するに年下の、おそらく後輩に当たるような人に思えた。
「うん…うん…。わかった、じゃあとりあえず待ち合わせして。それでいいよね。…今日?」
 驚いたようにそう言って、ちらりと比呂子は氷那を振り向いた。残念ですけど、目と違って耳というものは自分の意志で閉じたりできないようにできているんです。とでも言いいたそうに氷那は肩をすくめた。比呂子はほとんど相手からの提案を丸呑みしたようで、「はい、はい」と手早く話をまとめてその通話を終えた。
「これから、どこかに出かけるんですか?」
「まあね。昔の知り合いに強引に呼び出されちゃったもんだから」
 応えた比呂子に、氷那はわざとそれ以上のことを聞かなかった。聞き出すまでもなく、その「久しぶり」を比呂子が喜んでいるふうではないことは明らかだったからだ。そして比呂子のような性格の人が「断りきれない昔の知り合いからの呼び出し」される、という状況が何を意味しているのかというと、それを想像をするのは決して難しいことではない。
「じゃ、サンプルは預かっていきますね」
 氷那はお茶のお礼を言いながら机の上の小袋を素早く手に取ると、席を立ち上がって出口へと向かった。比呂子はそこで事務的な注意事項を何点か話してきたが、かすかに苦そうな表情は完全には隠し切れてはいなかった。
「大丈夫ですよ。大事に扱いますから」
「そう? でもまあ、気をつけて」
「心配しないでください」
 と、氷那はサンプルを軽く差し上げて片目をつぶった。比呂子は立ち去る氷那にまだ何か言いたいような感じではあったが、二人の会話はそこで終わりになった。
 研究室を出て、企画課の自分の机に戻ってすぐ、氷那は外出用に自分の荷物をまとめ始めた。その時つい無造作にサンプルを扱いかけて、慌てて両手を添えるようにしてそれを持ち直した。
「大事にしますよ。サンプル『も』ね」
 時計の針はまだ早い時刻を指していた。要領をよく済ませば、これから予定通り得意先を回って、それから展示会場に向かっても十分間に合うはずだった。

          *

 食事をしながら真夕と話したのは、聴いてきたばかりの講演会の内容がほとんどだった。もちろん、氷那には専門的すぎる部分はわからないのだけれども、それでも夢中になって自分が感動した点なんかを話す真夕の姿は、見ているだけで退屈しないものだった。
 しばらく一方的に喋り続けていて、話が途切れた一瞬でそのことに気づいたらしく、急に真夕は顔を赤くしてうつむいた。ごめんね、と言うその顔がかわいくて、氷那はその時比呂子がこの人に入れ込む理由がわかったような気がした。
「ダメなんだよね、私。自分が夢中になっちゃうと、つい周りが見えなくなって。子供の時からそう、って言われたりもしてるんだけど。どうしても直らないの」
 氷那は5つ年上とは思えない真夕の子供っぽい表情に顔をほころばせた。少しずつではあるけれども、自分の中にこの前とは少し種類の違う「欲」が出始めているのを実感していた。
「氷那さん…氷那『ちゃん』、かな。いい?」
「呼び捨てでいいよ。私も勝手に『真夕』って呼び捨てにしてたし。もういいんじゃない? うちらはそれで」
 なんか緊張するね、と真夕は言ってから、「じゃ、氷那」と呼んだ。
「氷那は、上手だよね。人に合わせて会話するのとか。それも昔から?」
「どうかなぁ。あんまり『自分』ってどんなヤツかってのを真剣に考えたこと、今までなかったから。でも、とりあえず私は人と会話するってことが好きだよ。知らない人と会ったりして、『あー、この人どんな人なんだろ』って思いながらその人の話を聞くの。それが楽しい」
 そうなんだ、と真夕は驚いたような顔をした。氷那はその驚き方が少し様子が違うと思い、「何か私、変なこと言った?」と聞いてみる。
「ううん。ただ、それと同じようなこと、前に比呂子さんも言ってたな、って思い出して。『人の話を聞くのが好き』ってところ。不思議だね。全然似てないみたいな二人なのにね」
 比呂子の名前が出てきたことに、氷那は胸が締め付けられた。自分が言った言葉を、先に取られてしまっていたということもあり、煽られたような気持ちにもなる。  言葉が少し途切れて、店員が二人の食べ終えた皿を下げに来た。食後の飲み物が間もなく運ばれて、いよいよ「これから」のことを話し合う時間帯になったんだな、と思う。
「明日、早い? 今日はこれで解散にする?」
 氷那が先に言い出すと、真夕は「うん」となんとなく歯切れの悪い返事を返す。氷那はそこで「どこか行きたいところがあるなら付き合うよ」と明るく言った。真夕は微かにそれを聞いて微笑んだ。
「行きたいところ、っていうのとは少し違うんだけど」
「ん?」
「この前さ、貴重なCDを貸してもらったじゃない? ずっと返しそびれてたけど」
 氷那とじては実は、もう一度会うための口実としてそれを貸した気持ちもあった。だから「返す」ことにあまり几帳面になっていたのなら、逆に申し訳ないことをしてしまったな、と思ってしまう。
 けれども次に真夕が言ったのは、そんな氷那の予想を外したものだった。
「ここからだと、私の部屋って割と近いところにあるの。もし氷那が平気なら、少し寄っていかない?」
 氷那は本気で驚いた。まさかそんな展開になるだなんて、全く考えもしなかった。

          *

「比呂子さんは、今誰か付き合っている人はいないんですか?」
 と、香澄は軽く酔ったような足取りで歩道の縁石の上を歩きながら言った。半歩後方で、比呂子は香澄がよろけそうになるのを時折支えるようにしながら添って歩いている。
「いないよ。何だか疲れちゃってね」
 冗談めかしてそう言う比呂子を、香澄は片足のまま器用に体を反転させて見た。
「時任さんとは? 違うんですか?」
 香澄が立ち止まったのに合わせて、比呂子も立ち止まった。国道沿いの道では、いくつもの光を交差させて多くの自動車が止まることなく行き来していく。
 どうしてそこで真夕の名前が出てくるの? と比呂子は聞いた。だって、と香澄はふざけてすねたように口を尖らせる。
「本社の比呂子さんの噂を聞くたび、必ず時任って人の名前もついてくるんです。あそこはあの二人でもってる。あの二人でやっているからあれだけのものが開発できる、って。そういう話を聞くたびに、きっと比呂子さんのことだから、もうその人と付き合っているんだろうな、って思ってたりしたんですよ。私は」
 比呂子は小さなため息をついて首を振った。それから「それは、誤解」と聞こえるように言って先を歩き始めた。遅れそうになって香澄は慌てて縁石から降りると、早足に比呂子の隣へと追いつく。
「何がどう誤解なんですか? だって、時任さんのこと、比呂子さんは好きなんでしょう?」
「『好き』は『好き』だけど。そういうのとは違うよ。大体、あの子は私とそういう関係にはならない方がいいと思うし」
 どうしてですか? と香澄は言った。比呂子はどこからどう説明したものかと迷いながら、視線を遠くの方へと飛ばした。
「あの子…真夕は、どろっとした関係には向かないから。このままの方がいい」
「どろっ、て。そうなるんですか?」
 だって実際、と比呂子は言って香澄の顔を見た。
 新卒で入って来た香澄が研修生となり、数ヶ月の新人研修を専用の施設で過ごしていた間、比呂子は急遽教育係としてそこへ借り出された。その時に、一人悩んでいた香澄の姿を見つけて、詳しく話を聞いているうちに親しくなった。
 夜中に抜け出して二人で会っているうち、段々と話をするだけでは関係が収まらなくなっていった。お互いに初めてではない、ということがわかると遠慮もなくなって、研修期間が終わるまで、何度も人の目を盗んでは抱き合った。
 研修が終わり、配属先が決まってからも少しはその付き合いは続けたが、いくらもしないうちに比呂子はその関係を終わらせるべく別れを切り出した。
 理由は、人目を忍んで会い続けることの面倒さと、中途半端な距離感で付き合うことでしてしまう、余計な嫉妬や詮索の重ね合いが重荷になったからだった。
 昔はそれほど強く感じていなかったはずの、「付き合う」ということに付随して起きる「依存」の気持ちが、今では自分のものも相手のものも、ひどくグロテスクなものに見えるようになっていた。
 そしてそれがそんなふうに思えてしまうのは、何より自分も相手も同じ「女性」であるということが大きい、と比呂子は気がついた。
 そのことは別れを切り出したときになるべく丁寧に香澄に説明をしたつもりだったし、香澄も完全に理解はできないまでも一応は納得した形で終わりを決めた、ことになっていた。
 だから急にもう一度会いたい、相談をしたい、と香澄に言われたとき、比呂子はできればそれは避けたいと、まずそう思った。自分が「もう見たくない」と区切りをつけたものを、どうしてわざわざもう一度見直さなければいけないのか、と恨むような気持ちにさえなった。
 そして実際、香澄は比呂子に対して、あの頃とほとんど変わらない気持ちを持ちつづけていると、言葉にも態度にも隠そうとはしなかった。
「あれから、私なりにもいろいろと考えてみたんです。それで、思うこともあって」
「悪いことをしたとは思ってるよ。ごめんね」
 香澄は数歩比呂子の前に出て、それから体を反転させて振り返った。正面からじっと比呂子の顔を見つめて、手を取ると自分の頬に触れさせた。
「本当は、もう一度会えさえすればいい、って思ってました。声を聞いて、私のことを見てもらえればそれだけでこれから頑張っていけるはず、って。だけど、そういうわけにもいかないみたいです」
 香澄は比呂子の手のひらに唇をつけた。それが終わると指先を絡ませるようにして、比呂子の胸の前に押し付ける。
「寝てくれませんか? これから。お願いします」  真正面から来たトラックのライトの眩しさに、比呂子は思わず目を閉じた。何処に対してかも知れないクラクションを鳴らしながら、それは猛スピードで脇を通り抜けていった。