OL小説:「A.O.L.」その5

 講演会が無事に終了し、真夕が同行の開発二課の面々と一緒に展示会場出口に向かう長い人の列に続いていた時、手元の携帯電話が鳴りだした。比呂子からに違いない、と画面も見ずに素早く応答をしたものの、そこから聞こえてきたのは別の人の声だった。
「お疲れさま。真夕、今平気? どのへんにいるの?」
 思いがけない氷那からの連絡に、真夕は焦ってつい同僚の顔を見回してしまった。
だけどもイベント最終日の会場はかなり混雑をしており、会場出口に導く誘導員のハンドマイクの声も喧しく、隣の人との会話もままならない状況では、とてもじゃないけど携帯電話の声が漏れ出て聞かれるような心配はなさそうだった。
 真夕は人ごみに揉まれながら、数歩前を歩く同僚の背中を見失わないように気をつけて、電話の向こうの相手に自分の今の状況について説明をした。集中しなければいけないことがよそにあったせいか、氷那に対して持ってしまっていた決まり悪さは、その時は頭から消えていた。
 真夕の必死の返事を受けて、氷那は言葉を返す。
「もう定時過ぎてるけど? これからみんな一旦会社に戻るつもり?」
「ううん。遅くなるかもしれないことはわかってたから、状況を見て直帰してもいいことにはなってたの。だから現地解散てことになると思うんだけど、私はどうしようかなって…」
 煮え切らない言い方だった。その言葉の後に続くはずのことは何なのか、氷那にはいちいち確かめることもなく予想ができる。
「比呂子さんのこと? 社内で会った時、今日は定時で上がるようなこと言ってたよ」
「えっ! どうして知ってるの? 話、したの?」
 明らかに動揺したふうに真夕が声を大きくした。氷那の持つ携帯には、背後から真夕を気遣う二課の人の声が漏れて聞こえきた。それらを真夕がおさめている間、氷那は駅前に掲げられている大きな時計を見上げていた。
「あのさ、実は私も今客先回ってきた帰りなんだよね。もし予定がないならこれから落ち合わない?」
「それは、でも…」
「ほら、うちら、この前からちょっとよそよそしくなっちゃってるでしょ。できたら仲直りっていうか、関係の仕切り直しみたいなことをしたいんだよね。ダメかな?」
 そこまで会話したところで、真夕は展示会場の通路を抜け出た。それまで真っ直ぐ一本しか進めなかった道が、急にあちこちへと広がり開ける。
 既に直帰するつもりだった同僚たちが、これから飲みに行かないかと誘い合い始めたが、とりあえず真夕はそれを丁寧に断った。みんなを見送った後、ずっと立ち止まっているわけにもいかず少しずつ歩きながら、氷那に「今、氷那さんはどこにいるの?」と尋ねた。氷那が答えた駅名は、真夕の現在位置の最寄駅からいくつも離れていない、同じ路線でほんの数分という場所だった。
「OKなら切符買ってホームで待っててよ。私が一旦その駅で降りるから、そこで拾う形にしよ」
 それじゃ、と言われると真夕は断れなかった。2人で会うということに不安のようなものはあるにはあったが、だけども氷那という人自体には決して嫌な印象を持っているわけではなかった。変に遠慮とかすることなく親しい間柄になれるのであれば、それはとても嬉しいことなんだし、と真夕は素直に思う。
 言われるままの切符を用意し、一人ホームで列車が入ってくるまで、真夕は自分の携帯電話をじっと見つめて待っていた。だけども、次の列車がもうすぐ到着するというアナウンスが鳴ってもまだ、真夕のそれは少しも反応をする気配を見せなかった。  どうしてこういう時に限って、比呂子さんは連絡をしてこないんだろう。そう真夕が思うと同時に、疾風のような勢いで列車がホームに滑り込んできた。

          *

 日中時刻の長い季節にあってようやく周囲に薄暗い空気が落ち始めた頃、比呂子は会社からはやや便の悪い場所にある、古い繁華街の駅に下り立った。数年前まではかつてよく訪れては歩き回ったところではあったが、ある日を境に以来一度も下りたことがない。
 見覚えのないコンビニやドラッグストアに看板を変えた駅前通りを抜けながら、比呂子はこういう場所を待ち合わせに指定してくるところがあの子らしいな、と思った。仰々しいまでにきらびやかな中央通を脇道に逸れ、数分も歩くと古い町並みらしく落ち着いた飲食店が立ち並ぶ一角に出る。比呂子が慣れた足取りで細かい道を折れていくと、昔と少しも変わらないたたずまいのまま、その店は入口に灯りをともしていた。
 扉を開けて薄暗い店内に入ってすぐ、奥のテーブルから一人が立ち上がり、比呂子のところへと足早に近づいた。
「比呂子さん。どうもすみませんでした。いきなり呼び出してしまって」
 入口の薄橙色の光の下で見たその人は、数年前に比べて少し髪の毛が伸び、大人っぽく顎のラインが細くなったように思えた。比呂子が「構わないよ」と答えてすぐ、その人は比呂子の手を取ると、自分がさっきまで座っていた奥の席へと引いていった。
 比呂子はその握られた手の自分との温度差に少し驚いていた。この数年の間、自分がゆっくりと冷ましていったものを、相手はそうはせずずっと温め続けて来たらしい。比呂子は残酷と思えるくらいに冷静になっている自分に苦笑をした。
「元気そうだね。大人っぽくなっててびっくりしたよ」
「比呂子さんは、変わりませんね。ちっとも」
 そんな皮肉な第一印象の交換をし合ってから、2人はそれぞれ注文を済ませた。出会った頃の研修生らしさはもうすっかり抜け、服装も顔つきも一人前の社会人らしい雰囲気を出すようになってはいたが、笑顔を作る時にはにかむように軽くうつむく癖は同じままだ。比呂子はこの佐倉香澄(さくら・かすみ)と初めてこうして面と向かい合った時のことを思い出した。
 当たり障りのない雑談をしているうちに注文の品が来て、食事を始めたところで香澄は比呂子に「仕事の方はどうですか?」質問してきた。比呂子が「相変わらずのんびりやらせてもらってるよ」と簡単に答えると、「嘘ばっかり」と香澄は言って笑った。
「去年の夏の新製品、あの大ヒットは比呂子さんのおかげだって聞きましたよ。サンプルの段階から量産ベースに乗せるための正確なデータとりがされてたことが大きかったって。それがあったおかげで品切れを出すことなくあれだけ社会的なヒットを飛ばすことができたんでしょう? 社内でもほとんどの人は知らないみたいですけど、幹部の間では有名な話ですよ。誰も予想していなかったあの商品の大ヒットを、樫原一人は見越していた、って」
 比呂子は「そうだとしても、私一人の手柄じゃないよ」と持ち上げてくる相手をかわして言った。実際、そう言われるのは自分としても少し不本意だった。なぜなら本来その商品の基礎部分を開発したのは真夕であり、真夕の手によるものだったからこそ、自分は信じて多くの手を貸すことができのだ。それに、商品の良さを効果的に宣伝してくれた企画や営業など他の課の力も大きい。
「そんなふうに謙遜して言うんじゃないかと思ってました。やっぱり比呂子さん、て感じ。そういうところ、変わらずにいてくれて私はすごく嬉しいです」
 比呂子が色々と言おうとする言葉を、遮るようにそう言って香澄は話をまとめた。そのままにしておくのも何となくくすぐったいものが残る気がしたが、比呂子はムキになるほどのことではないな、とそれについてはそれ以上のことを言うのはやめておいた。
 会話がそこで途切れたので、比呂子はそういえば、と話題を変えた。
「昼間、メールで何か『相談がある』って言ってたよね。どういうこと?」
 香澄はそう言われると、持っていたナイフとフォークを下ろし、口元を整えてから比呂子に真っ直ぐ顔を向けた。
「それなんですけど。私、今所属している支社がもう間もなく統廃合されるみたいなんです。それで上司から、転属の希望があるなら今のうちに出しておいた方が通りやすい、って言われて。どう思いますか?」
 香澄のいる支社というのは、香澄が研修生としてこの会社に入った年に新設された、ベンチャービジネスを担当しているところだ。数年前に社内で大規模な再編成が行われた際、既存の分野以外への進出を提言した取締役の一人によって華々しくデビューをした部署でもある。香澄を含む当時の新採用者で特に有力とみられた人材は、優先的にそこへ取られていったという経緯もある。
 ところが蓋をあけてみればその「ベンチャー」は世間的には目新しいと言えるものではなく、最初は息巻いていたその取締役も、失敗を恐れるあまり時間の経過とともに次第に他社の様子を見ながら後手後手で動くようなことをするようになってしまった。
 比呂子たちのいる本社にもその様子は十分に伝わっており、いずれどうにかされるのではないか、という噂はかなり信憑性を持って話されるようにもなっていた。
 それがまさかこんなに早く動きがあるとは、比呂子は少し驚いた。気の毒なことに巻き込まれたな、とも思った。
 だけどもだからといって自分にどうしようかと持ちかけられても、比呂子には少し手に余る相談だと思えた。
「香澄ちゃんは、どうしたいわけ? 今までやってたのって、営業総務でしょ? まずは次にやりたいことがあるかどうか、そこから考えるべきじゃないかな」
「それなんですけど。課はともかく、私、本社に勤務を希望したいんです」
 本社? と、比呂子もそこで食事の手を止めた。所属する課よりも場所から希望をするなんて、おかしな話だな、と比呂子が思った。そしてその比呂子の不思議そうな顔から素早く感想を察知して、香澄は身を乗り出して言う。
「私、本当は最初からあの支社なんかじゃなくって、本社で仕事がしたかったんです。その時も、比呂子さん私の相談に乗ってくれましたよね」
 そうだった。そのときもおかしなことを言うな、と思ったのだった。研修生の中でもそこに選抜されるというのは誇れることなのだし、入って早々に上の機嫌を損ねるようなことをするのはあまり良い選択ではない、とアドバイスをして、比呂子はその時に香澄を励ました。
「本当は、今の仕事をしながら何度も『やっぱりあの時無理にでも本社を希望していたら』って思ったりしたことがあったんです。だけども選んだことなんだし、って自分を納得させてきてて。それが今回こんなことになって、今度こそ自分の本当に希望するところに行きたいって思うんです」
「ちょっと待ってよ。その気持ちが強いのはわかったけど、じゃあどうしてそんなに本社にこだわりがあるの? 設備や体制だって、支社に比べて大きい分融通が利かないところだってあるし、思ってるほどいいところじゃないかもしれないよ」
 比呂子がなだめるように両手を前にかざすと、香澄は身を乗り出したまま、比呂子の両手を挟み込むようにして握った。
「あの時と、理由は同じです。私は、比呂子さんと同じ場所で仕事がしたいんです」
 熱っぽい視線を受けながら、比呂子は心が少し重かった。
 香澄が研修生だったとき、比呂子は新人教育係の一人として借り出された。その時、どうして自分はこの子に優しくしてしまったんだろうか、と今更ながら比呂子は思い返して悔やんだ。