OL小説:「A.O.L.」その4

 昼下がりの開発室で一人、研究誌のバックナンバーに目を通すのにも飽きた頃、比呂子は何の気なしに自分の携帯電話を白衣のポケットから取り出した。
 無音バイブレートなしにしていたせいで気づかなかったが、着信履歴に一件、メールに一件が入っている。モード解除をしてから着信履歴から見ると、ここしばらく全く連絡はしていなかったが、辛うじてメモリには名前の残る昔の知り合いからだった。比呂子が折り返し電話をする気もなく表示をクリアしようとしたところ、同じく入っていたメールも実は同一人物からのものであることに気が付いた。
 何となく気乗りはしなかったが観念してメールを確認してみると、短く「私、もうすぐ転属されるみたいです。相談したいこともあるので電話ください」とだけあった。
 比呂子はしばらくそれを眺めて、返事を打とうかと迷ったがやっぱりやめることにした。自分を頼ってくれたこと、覚えていてくれたことは確かに嬉しかったが、正直な気持ちを言えば、メッセージを読んだ瞬間から喉の奥にはほの苦いものが詰まったような、そんな感じがしていた。その相手を今「好き」とか「嫌い」とか思うことではなくて、自分にとって既に「過去」になっている人から現在進行形で関わりを持たれようとすることは、何となく落ち着かなく、奇妙な収まりの悪さを感じるものだったからだ。
 せめてもの救いは、今この場に真夕がいなかったことだな、と比呂子は思った。  とりあえず気持ちを静めようと、比呂子が携帯を机中央に置いたまま開発室共用のコーヒーメーカーに向かおうと席を立ったとき、丁度見計らったように出入り口の扉が二つノックされて開いた。
「お疲れ様でーす。あれ? 樫原さん一人ですか?」
 入って来たのは企画課のエースと呼ばれる有名人、深海氷那だった。比呂子は自分用のカップにコーヒーを注ぎ込みながら、氷那に自分の机の隣の真夕の席に座るようにと促した。
「お疲れ様。よかったら一緒に飲む?」
「はい。喜んでいただきます」
 比呂子が客用のカップを食器棚から出して支度をする間、氷那は物珍しそうに開発室の中を眺め回していた。それもそのはずで、同じ敷地内・建物内にありながらこの「開発室」という場所は、その他のオフィス然とした空間に比べて置いてあるものも雰囲気も全く様子が違う。研究の秘密保持のため、出入りをするのも品物を持ち出すのもきちんとチェックをされてからでなければならないという特殊な場所でもある。  比呂子が自分のカップと一緒に飲み物を持ってテーブルに戻ると、受け取った氷那は丁寧にお礼を言ってからそれを受け取った。
 まだ落ち着かなさげにしている氷那を先読みし、比呂子は真夕の机の上の書類の束から一枚の招待状を取ると、氷那に見えるように差し出して説明をした。
「今日はね、ここに書いてあるとおり数十年ぶりに来日した有名教授が講演するイベントがあるからって、開発二課はみんなで聞きに出かけてるの」
 氷那はそのチラシを受け取って読んだ。畑の違う氷那にはその偉大さはわかりにくいが、とりあえずその筋ではかなり権威ある人らしいことは理解できた。
「それで誰もいないんですね。でも、比呂子さんはどうして一人でお留守番を?」
「どっちみち一人は残れって言われてたしね。それに私はその教授の著書なら大体読み終えてたから。詳しい話は後で帰ってきたときに聞くよ」
 出掛けに、真夕が「比呂子さんの分までしっかり聞いてくるから」と張り切っていたことを思い出す。きっとものすごく、仔細丁寧にメモをとってきてくれるんだろうな、と思うと比呂子はほほえましかった。
 比呂子のその思い出し笑いに氷那は気づいてすぐに「何かあったんですか?」と質問した。比呂子が素直に真夕のその時の様子を話すと、そんなことがあったんですか、と氷那は話を合わせて一緒に笑った。だけども笑っている氷那の目が一瞬、真夕の机の上で泳いだことに比呂子はすぐに気が付いた。
 氷那が今日この普段は滅多に出入りのない開発室を訪れたのは、次に新製品となる予定の商品サンプルを受け取るのが目的だった。本来であれば別に氷那でなくても、もっと言えば企画課の人間でなくとも事足りる用事ではあった。
 けれども、氷那は「秘密の漏洩を防止するため」とか「一刻も早くサンプルを手にしてみたい」とかもっともらしい理由をつけて自ら望んでここへ来た。理由はとても簡単で、ここに来れば真夕と会えると思ったからだ。
 あの奇妙な一夜を過ごしたあと、氷那と真夕は何となく連絡をとりそびれているうちに既に2週間あまりが過ぎてしまっていた。あれ以来偶然で帰り時間が重なることもなかったし、それどころかランチタイムに社食で顔を合わせる機会にすら恵まれなかった。
 出入りのチェックの厳しい開発室のこと、今日企画課から一人来る、という予定は事前に伝わっていたはずだった。氷那はもし真夕も自分と同じく「会いたくても会えない」と思っていてくれるなら、きっと自分を待っていてくれるはず、と踏んでいただけに、実際にこうして訪れていないとわかったショックは少しなからず大きかった。
 それに、と氷那は思う。コーヒーを飲むフリをしてカップを傾けながらこっそりと比呂子の表情を窺った。
 理由はやっぱりよくわからないが、氷那は前々からこの比呂子という人があまり得意ではなかった。気に入らない、というよりもなんとなく苦手意識があるのだ。  真夕と比呂子は一見よく似た二人のようにも見られがちだ。どちらも研究熱心で人望が厚く、それでいて人がいいというか、少し抜けたところがある。そこまでは当たっているだろう。
 だけども氷那から見て、真夕は(自分ではそうは思っていないかもしれないが)今時珍しいくらいにとても素直で裏表というものがないのに対し、比呂子は同じく素直な面を持っていながら時々酷く鋭いところがあるのだ。
 企画課という職場にいて、人に説得や売り込みを日々やってきている氷那にとって、次の出方がある程度予想できる真夕が相手なら会話をしていても安心して自分が主導権を握っていられる。それが比呂子を前にすると、会話をしていてもどこか自分の意図しない(そして時に見られたくないと思うような)ところまでも見透かされているようで、不安なようなどことなく居心地が悪いような、そんな気分にさせられてしまうのだ。
 さらに言い進めれば、この比呂子という人、例えそうして氷那やその他の(見透かされていることに気のつかない)人たちを前にして「何か」を見つけたとしても、それを無闇に本人や別の誰かに話したり指摘したりするようなことは、おそらく絶対にしない。ずっと心にしまっておいて、本当にその着眼が必要となった状況になって初めて「気づいていた」ことを明かすのだろう。
 そんな氷那の気持ちに気づいてか気づかずか、比呂子はしばらく雑談としてここのところの業界の変動や研究のトレンドについてを話していた。意見が聞きたい、と言っては氷那からの話も催促してくる。
 数分もしないうちに氷那はいつの間にか相手ペースで話を進めさせられていたこと-----そして自分が相手に気持ちを許しそうになっていたこと -----に気づき、まただ、と顔をうつむかせた。油断をしている間に次々と心に透明な腕を入り込まされているような気がして、軽い身震いさえした。
「さてと。それじゃ雑談はこのくらいにして、本題に入ろうかな」
 そう言うと、比呂子はやや横向きになっていた自分の身体を、氷那に対して正面になるように椅子を回した。氷那は内心その言葉にほっとして、本来の目的であったサンプルを受け取ったら早々に戻ってしまおう、と考えた。
 ところが、比呂子は鍵の掛かった机の引き出しからサンプルの入った小袋を取り出したものの、それはすぐには渡さず、氷那からはやや遠い自分の机の中央に置いた。 「実は、少し前から真夕の様子が少しだけおかしいんだよね」
「おかしい…? 真夕が?」
 苗字でなく名前で呼んでしまったことに、言ってから氷那は気づいたが、比呂子は何も驚いたふうにはしなかった。
「先々週の週末からかな。なんとなく上の空になることがあるっていうか。考え事をしているみたいなの」
「それは…えっと。新製品とか、研究とかの悩みとは違うんですか?」
 反射的に氷那はとぼけた。比呂子はそれを聞いて、しばらく焦らすような間を空けてから、氷那の顔を真っ直ぐに見据えた。
「本当にそう思う?」
 こらえなければ、肩口をびくっと反応させてしまっていたかもしれない。氷那は背中に汗が滲み出したことを意識しながら、「いえ、その」とらしくなく歯切れ悪い台詞を吐き出したりした。
「真夕と、どこか一緒に行ったんでしょ? 先々週の週末」
 ばれてたのか、と氷那は思った。比呂子に真夕が喋ったこと自体には特に腹が立つようなことはなかったが、ただどこまで話したかわからないことは歯がゆかった。  氷那はそこで言葉を選びながら、真夕と一緒に行った数軒の店や、遅くなって自分の家に泊めたことまでをあまり感情を差し挟まないよう努めて客観的に話した。  比呂子は話を遮ることなく氷那の言葉が切れるまでじっと黙ったままでいた。そして話が終わると少しの間何かを考えるような遠い眼をしていた。
「何か、あったんじゃないの?」
「何か、って何ですか。何が言いたいんですか」
「できたら正直に話してもらいたいんだよね。そのへんのことはさ」
 比呂子はそこで唐突ににっこりと微笑んだ。氷那が、こんな状況にも関わらず思わずつられて口元がほころびそうになるような、朗らかな笑顔だった。
「言いにくいなら、じゃあ詳しく話さなくてもいいや。その代わり、私の言うことにきちんと『yes』『no』で答えて」
「は、はい…」
「真夕のこと、からかったり、遊んだりするつもりなんじゃないよね」
 ぎょっと、氷那は顔を上げた。大胆すぎるストレートな質問に戸惑ったが、そのあと「意味がわかんないなら、わかんない、って言えばいい」と逃げ道も用意してもらったことに、少しプライドが傷ついた。
「違います。そんなつもりじゃないです」
「ふぅん。じゃあ、これからどうするの? 付き合うの?」
「付き合う、って。そこまでは、まだ」
 次に会った時、どう話をすればいいのかさえわからないのに。氷那は思った。  これ以上、話を比呂子とするのは自分にとって危険なんじゃないか、と氷那がようやく思い始めたそのとき、机の上に出したままにしておいた比呂子の携帯電話が着信音を鳴らし始めた。