OL小説:「A.O.L.」その3

 結局真夕は翌日の昼前くらいまで氷那の部屋にいた。
 真夕が目を覚ました時にはもう氷那は隣からいなくなっており、姿を探して台所に入ってみると、そこで氷那は鼻歌混じりに朝食を作っていたところだった。
「狭かったでしょ。よく眠れた?」
 まるで昨日のことは何でもない(か、何もなかった)ことのように、社内で顔を合わせた時と変わらない爽やかな挨拶をされる。その満面の笑顔に真夕は一瞬、本当に昨晩のことは自分が見た夢だったんじゃないかとさえ思いかけた。
 だけども夢と片付けるにはあまりにも生々しい唇の感触が残っていたし、何よりそのことについて真夕から何かを言い出そうとすると、その気配を察知して素早く会話を遮ろうとしてくる氷那の態度が、否定したって事実は事実なんだということを強く真夕に実感させていた。
 気持ちに重みはあったが、氷那の用意してくれた朝食はとても美味しかった。中途半端に和んだ雰囲気で、だらだらとテレビを見たり音楽を聴いたりしながらいくらかの時間を過ごした。
 10時を回ったあたりで、お昼を過ぎるとさらに長居し続けることになりそうだと思った真夕は、自分から帰ることを言い出した。氷那は特にそれを強く引きとめるようなことはしなかったが、支度をする真夕に「ちょっと待って」言い残し、ずらりと並んだCDラックの中から数枚を取り出した。
「これ。良かったら借りていって。返すのはいつでもいいから」
 それは昨晩クラブで音楽談義をしていたとき話題にした、ある海外アーティストのCDだった。国内版としては発売されなかった上に既に絶版になっているらしいので、これから手に入れるのはかなり難しいという貴重な音源だ。
 真夕はちょっと会話の隅に出ただけの口約束を、氷那が律儀に覚えていてくれたのだと思うと、嬉しいような、なんとなく申し訳ないような、そんな気持ちで一杯になった。
 お礼を言ってそれらを受け取り、真夕が玄関で氷那に背中を向けかけたところで、氷那は真夕の腕に触れた。目覚めてから意図的にだろう体の接触を避けてきた氷那の、その日初めての接触だった。
 真夕には嫌悪感のような気持ちはなかったが、ただ気をつけなければ舞い上がってしまうんじゃないかというような強い緊張感は走った。
「また、休みのときとか一緒に遊びに行かない? ライブでも、コンサートでも、演劇とかも興味あれば」
「うん。そうだね、そうしたい」
「良かった。真夕は貴重な音楽仲間だからさ」
 冗談ぽく片目をつぶる氷那に、真夕もややぎこちないものの微笑を返した。
 真夕が玄関の扉を開けるのと同時に腕に触れていた手は離れた。気のせいか、真夕には自分が立ち去る直前にその指先が名残惜しそうに少し自分に伸びたような、そんな気がした。

          *

 どこをどう歩いたかよく覚えていないまま自分の家に辿り着いた真夕だったが、その日一日は何をやっても手につかないような上の空のまま過ぎて終わった。翌日の日曜日の朝、浅い眠りを自分の携帯の着信音に覚まされた。
「おはよう。真夕? もしかして寝てた?」
 もしもし、とだるそうに返答してしまった自分に対しての最初の一声で、真夕は飛び上がるようにベッドから出た。慌ててすぐそこに本人がいるかのように背筋を伸ばすと受話器をきちんと持ち直す。
「比呂子さん? いつ帰って来たの?」
「昨日の夜にね。本当は昨日のうちに連絡したかったんだけど遅かったから連絡しそびれちゃって。ね、今日って何か予定ある?」
 ない、と真夕は即答した。言ってしまってから、ちょっとくらい見栄を張って、あるフリでもしとけばよかったかな、と自分のあからさまな態度を恥ずかしく思った。
「じゃあさ、これから会わない? 仕事サボったお詫びに食事をおごるよ。それに…」
 と、そこで言葉を切られて真夕は体を硬くした。まさか、自分が氷那と出かけたことを比呂子が知っているわけがない、とは思ったが、なんとなく罪悪感が喉元近くにまでこみ上げた。
「…お土産あるんだ。それも渡したいし」
「あ、お土産ですか? そっか」
 拍子抜けした真夕の返事に、なんで急に敬語? と比呂子は突っ込みを入れたが、真夕は適当な言葉を並べてそれを強引に誤魔化した。比呂子はそれ以上何か言ってくることはしなかったが、待ち合わせをするレストランを決めたあと最後に一言だけ、「真夕、何かあった?」と尋ねてきた。
「何も。何もないよ、全然、別に」
「ふーん。じゃ、多分こっちが先に着いてると思うから、あとでね」
 電話を切ったあと、真夕は思わず床にへたりこんでしまった。数分間はそのままぼうっと座っていたが、しばらくして比呂子が戻ってきたことと、戻って最初に連絡をとってきたのがおそらくは自分だったということを意識し始めると、思わず顔がほころんだ。

          *

 お土産としてもらったのは、地元の特産という果実のジュースの小瓶だった。
「喉にすごくいいんだって書いてあったから。これは真夕に買っていってあげなきゃって思ってね」
 前々から「朝は声が出にくい」というような話をしてきた自分のことを、旅先で気にしていてくれたんだ、と思うとまた真夕は気恥ずかしいような、申し訳ないような複雑な気分になる。
 しばらくは運ばれてきた食事をしながら、旅先での話や逆に比呂子がいない間の社内の様子について話し合っていたが、デザートが運ばれてきた頃になって、比呂子は真夕に窺うような目を向けた。
「やっぱり、真夕。この2日で何かあったんじゃない?」
 ギク、と真夕は肩を強張らせた。そんなことない、と一応否定をしてみたが、自分でも嫌になるくらいに真正直に、言い出す声が微かに震えていた。
「言いたくないなら、無理には聞き出さないけど、」と、比呂子は逆にとても冷静にスプーンをデザートに差し込む。「もし困ったことがあったなら、できるだけ正直に話してほしいな、って私は思ってる」
 真夕はうつむいて顔を赤くした。それまでは何となくで思ってはいたけれども、今日ほど強く比呂子の態度や出方について意識をしたことはなかった。
 こちらの態度を十分過ぎるくらいに悟っていながら、それでいて必要以上に踏み込んでくるようなことはしない。良く言えば「大きく見守ってくれている」、ということになるだろうが、悪く取れば「一方的に見透かしている」というふうにもなる。
 真夕は急に自覚した自分の融通の利かなさや鈍感さに対しての嫌気もあり、反動 でつい比呂子の接し方に反感に近いものを持ってしまった。
「比呂子さんは…私のこと、心配してくれてるんだよね」
「え? うん、もちろん。だって大切な仕事仲間じゃない」
 仕事仲間、という言い方も少し真夕には引っかかった。改めて考え直してみれば、自分と比呂子との距離感はそういう程度のものだったのだろうか、と思う。
「私のことを心配してくれるのは、私が悩んだり落ち込んでたりすると、仕事がうまくいかなくなるから、って思うから?」
「ちょっと。どうしてそうなるの? そんなわけないでしょう」
 とりあえず落ち着いて、と諭される。真夕はとてもたくさんの言いたいこと、伝えたいことがあるとは感じていたけれども、実際に口にしようとしてみると、そのどれも自分の気持ちをそのままには全然表していない気がした。
 もどかしさに胸が一杯になり、それ以上食事をすることができそうもなかった。比呂子はそれを見て取ると自分も食べかけていた手を止め、店を出ようか、と真夕を誘った。
「ごめんなさい。変なこと言って」
「いいよ。何に悩んでるかわかんないけど何かに『悩んでる』って感じは、私にも経験があるから」
 そういうときは、とにかくリラックスするのが一番、と言って比呂子は真夕を連れ出した。しばらく電車に乗って港に近い駅で下りると、海沿いにある散歩コースを並んで歩き出す。
「真夕はさ、良くも悪くも『真面目』なんだよね」
「すみません」
「何でそこで謝るの? 私はそういう真夕のこと、すごく羨ましいと思うけどな」
 うらやましい? と、真夕はうつむいていた顔を上げた。ほんの少しだけ背の高い比呂子は逆に視線を僅かに下げ、目が合ったところでにっこりと笑った。
「私なんて不真面目で適当で、真夕の真面目さのちょっとでもあればいいのになーって思ったりするよ」
「そんな! 私だって、比呂子さんの頭の柔らかいところとか、すごく自然に生きてるところとか、そういうところに憧れるてるのに」
「やだなぁ、恥ずかしくなるからあんまり褒めないで」
 と、比呂子は本当に恥ずかしそうに笑った。その笑顔につられてつい真夕も表情が緩む。立ち止まった比呂子が「ほら」と歩道の脇の柵越しに指をさす方向を見ると、ちょうど岸の向こうに大きな船が着いたところだった。そのとき初めて、真夕は吹いてくる風がいつも自分が感じているものとは違った匂いの、潮と湿り気を含んだものであることに気がつく。
「いいんじゃないかな。それで」
「何が?」
「真夕が何に悩んだとしても、真夕は真夕だってことを嫌だとか思う必要はないんじゃないかってこと」
 2人は並んで胸くらいの高さの柵に腕をついて海を見ていた。比呂子は眩しそうに水面から跳ね返される光に目を細めた。
「真夕が他の人とか物とかとケンカしてるんなら私も加勢できるんだけど、真夕が真夕とケンカしちゃうと、私はどっちの味方していいかわかんないからさ」
「ごめ…」
「だから! 私に謝るのはなし! 代わりに真夕に自分でよーく謝って、仲良くしてあげて」
 ね? と比呂子は真夕の肩に手をおいた。真夕はうなずくと、その自分の肩の上の手に自分の手を重ねた。
 それからしばらく海を見てからまた散歩を再開し、さっき食べ損ねたデザートの代わりと言って一緒にアイスを買って食べたりしているうち、真夕はすっかり落ち込んでいた気持ちが晴れてきた。
 夕方近くになって乗り込んだ帰りの電車はやや混みあっていて、二人はドア付近に並んで立った。肩先が触れ合うくらいの距離で並んでいると、真夕は急に何もかもを話してしまいたいような、そんな気持ちがこみ上げてきた。
「比呂子さん。実は一昨日の金曜日なんだけど」
「ん?」
「私、企画課の深海さんと一緒に食事に行ったんだ」
 それで? と比呂子は言ったけれども、真夕はそこで急に自制がかかって口をつぐんだ。その間にも電車は次々と駅を過ぎ、次が真夕の乗り換えの駅というときになって、ようやく真夕は黙っていた口を開いた。
「比呂子さん、聞かないの?」
「聞いて欲しい? 真夕は」
「それは…」
 そこで電車は次の駅に入った。真夕は結局それ以上のことは自分からは言えなかった。下りたホームから真夕が振り向くと、過ぎ去る電車の中では比呂子が自分に笑顔で手を振っていた。