OL小説:「A.O.L.」その2
 人のたくさん集まるところは苦手、と言っていた真夕だったが、強引に氷那が昔よく通っていたクラブへ案内したところ、見せた態度は決してつまらなそうなものではなかった。入ったときから妙に楽しそうにしているので聞いてみたところ、実は真夕は(あまり最新すぎるものは苦手らしいが)かなり幅広い範囲での音楽好きということだった。その日はたまたまクラブ内で企画的に使われていた曲が、かつての名曲をリアレンジしたようなもの中心だった、というこちらの都合にぴったりの嬉しい偶然のおかげもある。
 自分もかなり音楽には詳しいと自負のあった氷那だったが、さすがに真夕は研究者らしく、相当詳しくないと知らないようなマニアックな原曲まで即座に言い当てるほどの耳と勘をしていた。負けるもんかと氷那も話を進めるうち、ほどなく二人は熱く花咲く音楽談義をするほど打ち解けた会話ができるようになっていた。
 終電の時間が近づいて二人は店を出たが、駅に向う途中で主に話し手になっていたのは、夕食時とは逆転して真夕の方だった。そのことに真夕も自分で気が付いたらしく、「私、慣れてない人には自分からあまりたくさん話せないんだけど、一度慣れた人には喋りすぎなくらいに喋っちゃう性格なんだ」と言い訳のような自己紹介をしてきた。
「それって、もう私は真夕にとって『慣れた人』ってこと?」
「うん。普段はもうちょっと時間がかかるはずなんだけど。氷那さんて、すごく話しやすくていい人だよね」
 軽口のように氷那が言った言葉に、真正直に照れもせず真夕は答えた。そうなると言われた氷那の方が逆に照れくさくなってしまい、つい「仕事柄そんなふうになっちゃうんだよね」と誤魔化すような返事を返したりした。
 駅前に近づくにつれ、終電に乗り遅れまいと急ぐ人の波が荒くなってきた。自己申告していたとおり人ごみ慣れをしていないらしく、真夕はその流れに徐々に負け始め、じりじりと歩調が遅くなっていった。ちょっと油断をした隙にも振り向けば氷那は置き去りにしてしまいそうになっていて、慌てて見失しないかけた人の流れを無理して逆行すると、素早く真夕の手をつかまえた。
「早く! 急がないと電車出ちゃうよ」
 そう言って氷那は真夕の手を強く握り、素早く構内の切符売り場へと進んだ。改札へと急いではいたものの、本心を言えば、このまま別れるというのはなんとなく物足りないような気がしていた。思い切って誘ってみようか、と何度も考えたが、どうしようかと迷っているうちに真夕の乗る路線の入口に辿り着いてしまった。
「切符、早く並ばないと」
「うん。ちょっと待って」
 発車までそれほど時間に余裕があるわけではなかったのに、そこで真夕が取り出したのは財布ではなく携帯電話だった。二つ折りを開き、しばらくその画面を見つめてから、小さなため息をついてそれをしまった。
「どうかした? 誰かからのメール待ち?」
 氷那の言葉に黙って首を振ると、真夕は財布を捜し始めた。氷那はそんな真夕の唐突に沈み込んだ態度を見て、迷いが吹っ切れた気がした。
「比呂子さんからのメール? だよね。待ってたの」
 氷那にずばりと言い当てられたことに真夕は慌てて、思わず取り出しかけた財布を手から滑らせた。氷那はそれが完全に落ちる前に素早く拾い上げると、真夕に渡しながらにっこりと微笑んで手を握った。
「やっぱりさ、今日はもうちょっと話したいんだけど。真夕、これから家に来ない?」
「どうしたの? いきなり」
「真夕がどーしても帰りたいっていうなら、無理にとは言わないけど」
 戸惑ったふうにしていた真夕だったが、氷那が強気に押していくとわりにあっさりと折れ、氷那の手渡す路線の切符を受け取った。

          *

 無事に氷那の部屋に着いたのは良かったが、その頃には既に真夜中を回っており、入浴など寝支度を整え終わるとその時点で今にも眠りそうに真夕は目をこすった。今夜はたまたま残業がなかったとはいえ、一週間の疲れが溜まる金曜日の夜のこと、氷那は真夕にベッドに横になるように勧めた。
 眠いながらも一つしかないベッドを取るのは悪い、と真夕が必死に遠慮をするもので、氷那が半分冗談に「じゃあ一緒に寝る?」と尋ねたところ、真夕はあっさりと「いいよ」と承諾をした。
 電灯を消して氷那が布団に入ると、壁側の真夕は氷那に背中を向けて少し肩を丸めていた。氷那が同方向に顔を向けて目を閉じると、鼻先に触れる真夕の長い髪からは洗いたてのシャンプーの匂いがした。
「あのさ。前から聞きたかったんだけど」
「……ん?」
 横になって少し経ってから氷那が話し掛けると、寝かけていたのか真夕はくぐもった声で返事をした。氷那は、もし眠ってしまったならそれでもいいや、という気持ちで独り言のように質問を続けた。
「真夕はさ、いっつも比呂子さんと一緒にいるよね。どうして?」
「どうしてって、別に。尊敬してるし、信頼もしてる人だし。なんか、一緒にいるのが自然ていうか、安心するっていうか」
 氷那にはどうしてこの二人、同じ会社で働いているというだけのこの人たちが気になってしょうがないのか、自分自身よくわからなかった。偶然の助けもあって今、目の前にはそのうちの一人が触れられる距離にいるにも関わらず、なぜかそれでもとても遠くにいる人たちのような、そんな感じすらしてしまう。
 理由のない漠然とした感覚ではあったけれども、それは”劣等感”に似たものなんじゃないかという、そんな気がした。
 氷那がそっと手を触れると、真夕の背中は規則正しい呼吸に合わせて揺れていた。 「真夕は、比呂子さんのことが『好き』?」
「んー…。好き、だよ」
 夢見心地なのか、全く無防備な口調で真夕は言った。氷那はだけども逆に、それがあまりにもさらりと言われたことで、いきなり胸を締め付けられたように感じた。
「どういう意味の『好き』?」
「わかんないけど。なんとなく」
 氷那は真夕の背中に自分の胸元からぐっと体を押し付けた。腰の上に腕を乗せて回すと、真夕の肩口に鼻先を乗せるような体勢になる。
「比呂子さんとも、一緒に寝たりした?」
「二度…くらいかな」
「その時、何かあった?」
「何かって?」
 その返事を聞いて、氷那には今この段階での二人の関係が(少なくとも身体に関する面では)どの程度のものなのかがわかった。そしてわかったからこそなおさら、一種嗜虐的とも言えるような衝動が湧き上がってくるのを、氷那は自分で感じていた。  ねぇ、という氷那の呼びかけに真夕が生返事のような声を出したのをきっかけに、氷那は真夕の肩口をつかむとやや手荒な仕草で身体を表に返させた。突然夢見心地から引き戻された真夕は、そうなってもまだ自分の身に何が起きたのかわかっていない様子で、とろんとした目を頭上の氷那に向けていた。
「あのね、突然のことだから驚くかもしれないけど」氷那は上から腰をかがめて顔を覗き込む格好でそう言った。「私はね、前から真夕のことすごくかわいいなって思ってたんだ」
「そうなの? え、と。ありがとう」
 真夕は相変わらず危機感のない返事をしてきたが、氷那はその間にも真夕の両手首をつかむと、真夕の顔を挟んで左右に突き下ろすようにして固定させた。お互いの腕力は無いもの同士でいい勝負という感じだったが、本気で抵抗すれば逃げることは難しくない、という力しかそのとき氷那は出していなかった。
 氷那がゆっくりと顔を寄せたところで、ようやく事態の把握ができたのか、真夕は慌てて顔を横に向けると目元と口元を強く結んだ。本人は必死なんだろうが、その怯えたように戸惑う仕草は、上から見下ろす氷那にとっては益々気持ちを煽ってくるものに映る。
「そんな困った顔しないでよ。それとも、真夕は私に触れられるのも嫌なくらいに嫌い?」
「だって。急にそんなこと言われても」
「固く考えなくてもさ。楽にしてればすぐ終わるよ」
 そう言って氷那は唇を横向きの真夕に寄せ、できる限りに唇に近い頬にキスをした。触れた瞬間はかなり動揺したようで体を反応させた真夕だったが、不思議と緩く固められた手首を振りほどこうとする力は加えてこなかった。
 氷那は少しだけ体を浮かせ、それから何度にもわけて優しいタッチで唇を真夕の額や瞼に触れさせていった。繰り返すうち、気のせいか少しずつ力んでいた肩の力も抜けてきたようで、氷那が耳朶を軽く噛んで離れると、薄く真夕の目が開いたのがわかった。
「大丈夫」
 何がどう、ということの明らかでない台詞だったが、氷那がそう言うと真夕は観念したように顔を真っ直ぐに上に向けた。氷那はつかんでいた手首を放すと真夕の頬に手を添え、ゆっくりと丁寧に真夕にキスをした。
 おずおずと、という感じで氷那の入り込む舌を受け入れた真夕だったが、ひどく緊張しているのかそれ以外の理由なのか、合わせる仕草はとても固いものだった。
「怖い?」
「う…ん。少し」
 氷那は適度に間を置きながら二度三度とキスをして、自然に真夕が受け入れてくれるのを待ったが、一向にそれらしい態度に変わる気配は見せてこなかった。
 氷那は乗っていた体を脇に落とすと、横側から真夕の髪の毛を梳くように指を入れた。
「やっぱり、こういうことは比呂子さんじゃないと嫌?」
「なんで? どうしてそこで比呂子さんが出てくるの?」
 比呂子の名前を出したことで、真夕が急に顔を赤くしたのが暗闇の中でも氷那にはわかった。氷那は表情を平たくして、相変わらず指先で髪をもてあそぶようにしていた。
「本当は今日だってさ。比呂子さんが一緒にいてくれないのが寂しいって、そう思ってるんでしょ?」
「!」
「何を無理してるんだか」
 すねたように氷那が今度は逆に真夕に背中を向けると、真夕は慌てて上体を半分浮かせ、小声で名前を呼びながら氷那の肩に触れた。
 比呂子の名前を出した途端に態度が変わったことは、氷那にはかなり癪だった。
だけどもどうしてこんなにも気持ちを苛立たせているのかわからない氷那と同じように、真夕もこの状況をどうしていいかわからないというふうで、しばらくして全く反応のない肩口から真夕は手を放した。
 眠れないままイライラと氷那がその体勢のまま動かないでいると、不意に背中に温かい感触があって、背中のそばあたりから「ごめんなさい」と謝る真夕の声が聞こえてきた。
 それからだいぶしばらく待って、真夕が眠ったのかとても静かになってから、氷那は静かに体を反転させると、こちらを向いている真夕の頭を自分の胸元に、腕を腰から背中へと回した。
 首筋近くに掛かる真夕の寝息が、氷那にはとても苦しかった。