OL小説:「A.O.L.」その1
 実はかなり前から気になっていた。口に出して誰かに言ってみたことはなかったけれども、心の中では他の人とは違う「何か」があるような、そんな感じがしていた。
 終業時間を少し多めに回った頃、ロッカールームに入った氷那は中央の長椅子に腰掛けて携帯をぼうっと見つめる真夕の姿を見つけた。何か操作をするわけでもなくただ画面を開きっぱなしにして、ほとんど身じろぎをしようともしない。
 おまけに氷那が入ってきたことすら気がつかなかったようで、真夕が小さなため息をつくのと同じタイミングで氷那が自分のスチール製ロッカーを開くと、ひどく驚いたふうに小さな悲鳴をあげた。
「時任真夕(ときとう・まゆう)さんですよね。開発二課の」
「あ、はい。えっと…」
「私ですか? 私、深海です。深海氷那(しんかい・ひな)。企画課の」
 わざとではないにしろ驚かせたことを謝って氷那は自己紹介をした。真夕はそれを聞いてすぐ、「知っています」と返事をした。  それもそのはずで、氷那は社内若手でも特に目立った出世頭であり、昨年度など大きな仕事を成功させたことで社長賞までもらっている。もともと女性の人数が多い会社ではあるが、その中にあって次々と斬新で画期的な企画をプレゼンしてくる氷那は社内どころか業界内にも名前の知れ渡った有名人だった。
 対して真夕のいる開発課という場所は比較的な地味な部署であり、決して成績や開発する商品などの質は悪いわけではないのだけれども-----というか、むしろ他社に比べれば随分と良いものであったにも関わらず-----意外と知名的には低く、目立たないことが多かった。
 着替えをする前からそうしていたのだろう、真夕は仕事着である白衣を羽織ったままでいる。氷那は並んだロッカーから自分の荷物を持ち出すと、真夕の姿が見える場所にまで移動をした。氷那という他人が世界に入り込んできたせいか、真夕もようやく腰をあげると自分の帰り支度をし始める。氷那が顔を大きく後ろに反らせて覗き込むと、一枚の白衣の下に着ていた黒地のタンクトップ姿になる真夕が見えた。
「真夕さん。明日の土曜も出勤ですか?」
「いえ。特に今混んでる仕事もありませんから。深海さんは出ですか?」
 氷那は手早く自分の支度を終えて真夕の近くに戻った。なんとなくの礼儀として返したのだろう自分への質問が、氷那には少しだけ嬉しかった。
「違います。私も急な仕事があるわけじゃないですし…って、予定らしいこともないんですけどね」
 真夕さんは? と氷那が聞き返すと、一瞬戸惑ったような表情をして、真夕はまたため息をついた。それから「いいえ。私も特に」と答える。
 そのため息の原因がさっきまで真夕が真剣に見つめていた携帯の中にあるのだろうことは氷那には容易に想像がついたが、今はそれに無理に触れようとしない方がいいな、と思った。
「へー空いてるんですか。それじゃ今夜これからは?」
「それも別に。このまま真っ直ぐ帰るだけです」
 氷那はそれを聞くと楽しそうに笑ってさっきまで真夕の座っていた椅子の上に腰掛けた。少し待つと、身支度をきちんと整えた真夕が音を立ててロッカーの扉を閉じてから氷那の方に振り返る。
「じゃあ、真夕さん。もしよければこれから私と食事にでも行きませんか?」
「えっ? いえ、それはかまいませんけど」
「良かった。そう言ってもらえて」
 氷那としてはそれは社交辞令なんかではなく、かなり本気の感想だった。
 入社してすぐから、5つほど年上にあたる真夕の存在を氷那は知っていた。ちょっとした挨拶や連絡程度の会話しか今まではしてきていなかったが、はっきりした理由もわからないままなぜか気になっていた。
 決して自己主張が得意というタイプではない。だけども簡単に他人には真似のできない実力を持っており、要所できちんと結果も出している。開発実験をするときの真剣なまなざしと、こうしてたわいのない話をしているときのどこか「抜けた」ような雰囲気のギャップも大きい。
 氷那はその返事をもらったとはいえ、もたもたしていて気が変わられるのもまずい、と思うといても立ってもいられず、手を引くようにしてさっそくロッカールームから廊下、会社出口へと急いで向かった。
 いきつけのレストラン・バーに入って注文を済ませてから、氷那はようやくそこでずっと聞かずにとどめておいた質問を持ち出した。
「でも、珍しいですね、真夕さん」
「何ですか?」
「今日は、比呂子さんとは一緒じゃないんですね」
 ぎく、と真夕は手拭を持っていた腕をびくつかせた。氷那は予想していた通りの反応に内心で「やっぱりな」と思う。
 そういえば今日は社内でも姿を見かけなかったような? ととぼけたふうに質問をふると、諦めたように真夕は首を振った。
「実は、今週半ばから出張だったんですよ。で、今日の午後あたりには帰ってくることになってたんですけど」
「ふんふん」
「内緒ですよ? 本当は用事は朝いちで終わったけれども、ちょっと一回り観光名所を歩いてきたいから戻るのは翌日にする、って。私にだけ連絡をよこして」
 氷那は笑った。すごく比呂子さんらしいですね、と言うと、そうでしょう? と真夕も認めた。それから独り言をこぼすように「今始まったことでもないんですけどね」と息をついた。
 比呂子というのは、真夕と同じ開発課にいる、さらにもう5つ年上の先輩である。天才肌、とでも言うのだろうか。しばしば神がかり的なほどのすごい発想をするのだが、ちょっと変わった性格をしていて、こんなふうにあるとき突然ふらりと旅に出たままいなくなったりなんてことがよくあるらしい。それでも独特の飄々とした態度や口調は憎めないところがあり、氷那とは別の意味で社内の有名人だった。真夕の入社とほぼ同時に新しくできた「開発二課」に配属されて以来の同僚であり、以来なにかと2人は一緒に行動することが多かった。
 それも特に比呂子の方が真夕を気にっているふうでもあり、生真面目に仕事をコツコツとこなしていく真夕を見守るようにする比呂子のことに気づくようになってから、氷那はちょと嫉妬に似た気持ちを感じることすらあった。
 だから今夜のように比呂子抜きで真夕と2人だけの時間を持っている氷那の状況というのは、かなりうまい偶然のめぐり合わせであるとも言える。課が違う者同士では始業や終業の時間が一致するのは珍しいことだった。
「比呂子さんがいないと、落ち着きませんか?」
「えっ!? そんなことありませんよ。」
 食事が進んでやや打ち解けてきたあたりで、氷那がもう一度蒸し返すようにその話題を持ち出すと、不意をつかれたのか真夕は顔を赤面させて否定を口にした。
 その顔を見て氷那はまた自分の気持ちが煽られたように感じる。
「あの、もしよければ、ですけど。このあともう一軒付き合ってもらえませんか?」
「もう一軒? ええ。まだ時間は早いですから、別に。お酒ですか?」
 そんな感じですけど、内緒。と氷那は言って笑った。時計を見ると確かにまだまだ夜中までには数時間の余裕があった。
 氷那はだけどもそのときこっそりと、このあといかに上手に時間をつぶさせようかと、その方法を考えていた。